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HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #13

Sacks argues that members can identify "possible descriptions" solely on the basis of formal features such as those he describes.

 訳:サックスは、次のように主張している。成員は、彼(サックス)が説明したような秩序だった特性から成る基盤に支えられて、「可能性がある記述」をひとつだけに同定することができると。

 

メモ:formal featuresのformalを秩序だったとした。formal ってちょっとなんて訳したらいいのかわからないな。規則に従ったのほうがよかったかな。"possible descriptions"もたくさんある記述の候補というニュアンスなんだろうな。

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #12

Notice two points of perspective shared with linguistics and ethnoscience. There is, first, the view that analysis of human sciences need not wait for results from other sciences and that communicative sequences can be analyzed as entities in themselves without reference to actual events depicted therein.

 

 訳:言語学と民族科学を共有した2つの観点があることに注意しよう。ひとつは、人間諸科学の分析が他の諸科学の成果を待たなくてよいことと、(2つめは) コミュニケーションの連鎖は、そのときに表現された実際の出来事について言及せずに、それ自体を実体として分析可能であるという観点である。

 

メモ:first があるが、secondがない。これからでてくるのかな、でもandがあったし、これからsecond viewがでてきたら、括弧の2つめは消そう。

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #11

 Members are seen as using social knowledge in three ways: (a) to recognize particular strings of sentences as possible or potentially valid instances of descriptions, stories, conversations, etc.; (b) to achieve certain social effects: to elicit a response, to get the floor, to induce somebody to grant a favor, etc.; (c) to communicate affect such as praise, criticism, humor, etc.

 

訳:メンバーたちは、次の3つの方法において、社会的知識を使っているようにみえる。(a)固有の一連の文脈を、記述や物語、会話などのあり得る、潜在的に妥当な事実としてみなすために;(b)誰かに親切をするように仕向けたり、発言権を得たり、応答を引きだしたりするなど、期待できる社会的効果を達成するために;(c)称賛や非難、面白さなどの感情(affect)を伝えるために。

 

メモ: to induce somebody to grant a favor 、親切をするように仕向けるでいいのだろうか。ここで、somebodyがでてくるのがよくわからない。おそらく、大意として誰かの親切や好意を引き出すようにするということでいいのだろう。

affectも感情でいいだろう。

 

 

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #10

 His aim is to show how listeners must utilize their own knowledge of the social system to interpret the juxtaposition of these terms in conversation.

 

訳:彼の目的は、次のことを明らかにすることである。どのように聞き手たちが、会話のなかで、それらの諸言葉の並置(juxtaposition)を解釈するために、自分の社会システムの知識を利用しなければならないのか。

 

メモ:social systemをどう訳すか(秩序?、装置?、制度?)で迷った。装置はおそらくDeviceだと思うし、制度だとちょっとわかりづらい。秩序でもいいように思えるが、自分の持っている社会秩序の知識というのもよくわからない。結果、システムが無難ということで社会システムとした。

2ページ目に突入した。

「女子力」を教示する技法ー気持ちを切り替えるための「美しくなる努力」 分析・まとめ

3.「女子力」を教示する技法

 

3-1.データ

 下記が、近藤が例として引用していた記事の一文の前後の文章である。これは、「今、必要な『女子力』はコレだ!」という記事の抜粋である。 この記事では、「今、必要な『女子力』(気配り力、切り替え力、盛り上げ力など)」が、人材、キャリアの専門家によって紹介されている。

 

 さらに必要なのは“切り替え力”。「女性は気になったことを心のうちでもんもんと自身に問いかける。“自己対話力”が強い」と話すのは、心理カウンセラーの前田京子さん。「仕事を楽しみ、結果を出すためには、自分の気持ちや思考を整理する方法を身に付けたいものです」“気持ちの切り替え”という意味では、メイクやファッションに気を配ることも重要。読者アンケートではONタイムのノーメイクを「OK」と判断する人が約15%も…。この結果を「ありえません!」と一喝するのが、社員9割以上を女性が占める広告会社で営業部長を務めた飯野晴子さんだ。「女子にとって仕事モードへのまたとないリセット法がお化粧。ノーメイクの人はメリハリなくダラッと働いているのでは?」。「メイクや服装に“きっちり感”がないと、仕事もいい加減なのかもと思われかねません」(柏木さん)(日経WOMAN 2009:p.10)

 

 

 このデータを読んでわかることは、化粧やファッションなどの「美しくなる努力」が、女性の仕事のモチベーションを高める方法として有効であり、それが「女子力」であるということである。

 つまり、このデータでは、「女子力」が、マナーや身だしなみ、商売道具の「美しくなる努力」を意味するのではく、仕事のモチベーションを高めるための「美しくなる努力」を意味するものとして理解できるのである(近藤 2014:pp.31-2)。

 しかし、「はじめに」でも述べたが、「女子力」の意味は多義的であり、「美しくなる努力」と「女子力」の結びつきは自明ではなく、端的に理解することはできない。では、なぜこのような理解が可能になっているのか。この問いに答えるために、データを詳しくみていきたい。

 

 

3-1.専門的な知識の導入

 データ1-1*1

さらに必要なのは“切り替え力”。「女性は気になったことを心のうちでもんもんと自身に問いかける。“自己対話力”が強い」と話すのは、心理カウンセラーの前田京子さん。「仕事を楽しみ、結果を出すためには、自分の気持ちや思考を整理する方法を身に付けたいものです」“気持ちの切り替え”という意味では、メイクやファッションに気を配ることも重要。

 

データ1-1のでは、心理カウンセラーの前田による「女性は自己対話力が強い」という指摘がなされている。この前田による指摘は、テクストを読むという相互行為のうえでどのような効果があるのだろうか。西阪仰は、次のように述べている。

 

  どのようなものであれ、社会の成員を特徴づけるためのカテゴリ

  ーには、かならずある種の期待が結びつきうる。「東京の人はX

  だ」という類のものである。このような(「μはXである」式の)

  期待は、しかるべきしかたで導入されるなら、ひじょうに強力な

  ものとして当該相互行為のうえを流通する。そのとき、μが当ては

  まる個別の事例aは、この範式にしたがって経験されることにな

  る。(西阪 1997:p.111)。

 

 この西阪の知見から、「切り替え力」という「女子力」の説明のおいて、「女性」というカテゴリーに対して、「女性は自己対話力が強い」という範式が導入されていることがわかる。この範式を導入するさいに、「心理カウンセラー」として前田を紹介し、前田を心理の「専門家」として提示している。

 この専門家として提示することは、読み手を「素人」としてカテゴリー化することにつながると考えられる。このようなカテゴリー化によって、専門家であれば持っているであろう知識や経験、素人に対して持っている権利や負うべき義務が、前田に期待されることになる(小宮 2007:p.118)。

 実際、「仕事を楽しみ、結果を出すためには、自分の気持ちや思考を整理する方法を身に付けたいものです」という前田の発話が、女性の自己対話力に対する前田の「助言」として理解可能となっているは、前田を専門家、読み手を素人として提示されているからであると考えられる。このように前田を「専門家」とすることは、「女性は自己対話力が強い」という前田の範式を正当化することにつながり、テクストを読むという相互行為のうえでは、強力なものとして流通することになると私は考える。

 そして、このデータ1-1では、前田の「仕事を楽しみ、結果を出すためには、自分の気持ちや思考を整理する方法を身に付けたいものです」という自己対話力に対する「助言」から、メイク・ファッションといった「美しくなる努力」をおこなうことが、「気持ちの切り替えになる」と「教示」されている。しかし、この記述だけでは、なぜ「美しくなる努力」が「気持ちの切り替え」となるのかがわからない。では、どのように「美しくなる努力」が「気持ちの切り替え」と結びつくように説明されているのだろうか。このデータ1-1以降の説明をみていこう。

 

3-2.女性の働きかたを語る権利 

 データ1-2

読者アンケートではONタイムのノーメイクを「OK」と判断する人が約15%も…。この結果を「ありえません!」と一喝するのが、社員9割以上を女性が占める広告会社で営業部長を務めた飯野晴子さんだ。 

 このデータ1-2の飯野の「ありえません」という発話からは、読者アンケートでONタイムのノーメイクを「OK」とした人を「注意」していることがわかる。このデータ1-2が「ノーメイクの注意」であるとわかるのは、「女性は仕事をするとき化粧をしなければならない」という規範的な常識的知識が使用されているからであると私は考える(小宮 2007:p.106)。なぜ、そのような知識が使用されていると理解可能なのだろうか。

 女性がノーメイクだったとしても、誰もがそれをいつでも「注意」できるわけではないだろう。コンビニでの買い物の最中に、女性がノーメイクだったとしても注意をすることはできないだろうし、したとしても注意された当人は意味がわからないだろう。つまり、ノーメイクを「注意」するには、「注意」をしてよい場所と人物があるということである(小宮 2007:p.105)。では、どのような場所と人物であれば、「ノーメイクを注意する」ことが可能なのだろうか。

 「社員9割以上を女性が占める広告会社で営業部長を務めた飯野晴子さんだ」という記述からは、 飯野が女性の働きかたについて語る権利があるように提示されている。西阪は、このような自分の実際の経験を際立たせることは、その出来事について語る優先権を自ら要求することであると分析している(西阪 2008:p.288)。また、会社の「部長」というカテゴリーには、「一般社員」や「主任」、「係長」、「課長」よりも、会社という組織や仕事について知識を主張する優先的資格がある、という期待が結びつくと考えられる(小宮2007:pp.117-8 )。

 つまり、ここでは、飯野の社員9割以上女性の会社で営業部長をしていたという実際の経験を際立たせることで、働く女性について語る優先権を飯野に帰属していると考えられる。また、飯野に働く女性について語る権利を帰属することは、飯野が注意する人(つまり、アンケートでノーメイクを「OK」とした人)を「働く女性」としてカテゴリー化することにもつながると私は考える。

 さらに、「部長」という役職カテゴリーが有効となる場所は「仕事中」である。このようなカテゴリーと場所の結びつきから、アンケートのONタイムという曖昧な表現が、会社での「仕事中」を指していることが推論できる。

 以上のことから、読者アンケートでONタイムでノーメイクを「OK」とした人を、「女性は仕事をするとき化粧をしなければならない」という規範的な常識的知識から、飯野が「ノーメイクの注意」をしていると理解可能なのは、次の3つの実践がなされているからであると考えられる。1つめは、飯野に「女性の仕事中のノーメイクを注意してよい地位(働く女性について語る資格のある人)にある」ことを帰属する実践である。2つめは、その帰属の実践によって、飯野に注意された人を「仕事中ノーメイクをしてはいけない地位(働く女性)」にする実践である。3つめは、仕事でもちいられるカテゴリーによって、ONタイムという曖昧な表現を「仕事中である」という意味に定式化する実践である(皆川 1998:p.91)。

 

3-3.「教えるべき知識」の産出と「非難」の理解可能性

 データ1-3

飯野「女子にとって仕事モードへのまたとないリセット法がお化粧。ノーメイクの人はメリハリなくダラッと働いているのでは?」。 柏木「メイクや服装に“きっちり感”がないと、仕事もいい加減なのかもと思われかねません」(柏木さん)

*2

  データ1-3において、冒頭、飯野はノーメイクを注意した理由を「女子にとって仕事モードへのまたとないリセット法がお化粧」だからと述べている。化粧が、仕事をするときにするべきものということだけではなく、仕事へと気持ちを切り替える方法として「格上げ」が実行されているのである。五十嵐素子によれば、Lynch&Macbethは知識教授の実践において次のような考察をおこなっている。

 

    彼らの考察を、知識教授のワークについて論じたものと見なす

 ならば、知識を教えるワークとは、相互行為上の能力に支えら 

 れながらも、「すでに知られている知識」を利用し、それを格 

 上げしながら、「教えるべき知識」を生み出していく実践だと

 いえます(五十嵐 2007:p.188)。

 

 この知見をもちいると、飯野は、「女性は仕事をするとき化粧をしなければならない」という規範的な常識的知識を利用し、それを「気持ちの切り替え法」として「格上げ」することで、「仕事のモチベーションを高めるための化粧(美しくなる努力)」という「教えるべき知識」の産出をおこなっていると考えられる。

 次の記述において、飯野と柏木は、仕事をするとき、化粧やファッションなどの「美しくなる努力」をしないことを取り上げ、「ふさわしくない行為」だと「非難」している。飯野は「ノーメイクの人はメリハリなくダラッと働いているのでは?」、柏木は「メイクや服装に“きっちり感”がないと、仕事もいい加減なのかもと思われかねません」、と述べている。

 なぜこの二人の発話が「ふさわしくない行為」への「非難」として読めるのか。そこには、データ1−1の前田の専門的な知識による範式やデータ1-3の飯野の教えるべき知識の産出が関係していると私は考える。

 データ1-1では、「女性は自己対話力が強い」という範式から、女性は仕事を楽しみ結果を出すためには、気持ちを切り替えることが必要であると言われていた。そして、データ1-3では、その気持ちの切り替え法として、「仕事のモチベーションを高めるための美しくなる努力」の知識が産出されていた。こうしたことから、「美しくなる努力をしない女性は、気持ちの切り替えができず、仕事中に自己対話をしている」という推論が可能になると考えられる。このような推論によって、飯野・柏木の発話が、美しくなる努力をしない人に対する「非難」として理解可能(読める)となるのである。       

 

 

4.まとめ

 『日経WOMAN』の「女子力」の記事において、「女子力」のひとつの能力である「切り替え力」が、「美しくなる努力」と結びついて説明され、教示がなされていた。 その説明は、専門家による女性の心的問題を提示し、それを解決する方法として、専門家の「助言」を参照し、気持ちの切り替え法としての「美しくなる努力」という「知識」を産出することでなされていた。そして、その「知識」の産出には、規範的な常識的知識やカテゴリーと結びついた期待などが、もちいられていたのである。つまり、「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきは、このようなさまざまな言語使用実践によって理解可能となっているのである。

 また、「女子力」の教示において、メイク・ファッションに気にかけない人を常識的知識や専門的な知識をもちいて、「注意」や「非難」をし、その教示がなされていた。それは、近藤が指摘するように、「女子力」の知識が産出されることは、その知識によって「問題」とされる女性の経験を増やし、生きづらさを増すことにつながると考えられる。

 本稿で明らかにしたことは、「女子力」に関わる実践の一端であり、他にもさまざまな実践があるだろう。 その実践の探究は今後の課題とする。

 

 

 

【参考文献】

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上谷香陽、1996、「ドロシ-・スミスにおける『アクティブなテクスト』

 について−「客観化された知識」に関する一考察」『現代社会理論研

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上谷香陽、1998、「『知識/言語』をめぐるフェミニズム社会学の試み :

 D・スミスの議論を中心として」『ソシオロジ』43巻2号、pp.35−50

江原由美子、2001、『ジェンダー秩序』勁草書房

小宮友根、2007、「規範があるとは、どういうことか」、酒井・前

   田編『ワードマップ エスノメソドロジー−人びとの実践から学

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 記述』新曜社

近藤優衣、2014、「『女子力』の社会学:雑誌の質的分析から」『女子学

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酒井・浦野編、2009、『概念分析の社会学−社会的経験と人間の科

 学−』ナカニシヤ出版

酒井・浦野編、2016、『概念分析の社会学2−実践の社会的論理−』

 ナカニシヤ出版

西阪仰、2008、『分散する身体−エスノメソドロジー的相互行為の

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 述』金子書房

馬場・池田編、2012、『「女子」の時代』青弓社

前田泰樹、2008、『心の文法−医療実践の社会学新曜社

間山広郎、2008、「言説分析のひとつの方向性」、『質的調査を学

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皆川満寿美、2002、「相互行為と性現象−エスノメソドロジーから

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 159

皆川満寿美、1998、「EMはどのように社会学か―ガーフィンケル

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諸橋泰樹、2002、『ジェンダーの語られ方、メディアのつくられ

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米澤泉、2014、『「女子」の誕生』勁草書房

米澤泉、2010、『私に萌える女たち』講談社

Francis, D. And S. Hester .(2004) An Invitation toEthnomethodology, London,

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M, Lynch (1993) Scientific Practice and Ordinary Action: Ethnomethodology and Social

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N, Wolf. (1991) The Beauty Myth. How Images of Beauty Are Used Against

   Women, New York, William Morrow .(=1994、曽田和子訳『女た

 ちの見えない敵−美の陰謀』阪急コミュニケーションズ)

Winch,P.(1958) The Idea of a Social Science and its Relation to

 Philosophy.Routledge & Kegan pail(=1977、森川真規雄訳『社会科学

 の理念−ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』新曜社)

*1:

(注2)データを詳しくみるために、データを分割して提示する。

*2:

(注3)記事では、柏木は生活経済ジャーナリストで『デキる女には「ウラ」がある』の著者として紹介されている。

 

「女子力」を教示する技法ー気持ちを切り替えるための「美しくなる努力」 方法論

2.「女子力」をいかに問うべきか

 

2-1.分析対象

 「女子力」と「美しくなる努力」の理解可能性を問うためには、いかなる対象を分析したらいいのか。私は、テクストで使用されている「女子力」について分析をおこなうことが、適切であると考える。

 なぜなら、近藤によれば「女子力」は主に雑誌で語られており(近藤 2014:p.1)、「女子力」がどのように理解可能なように説明されているのかを問うならば、実際に語られている場面を分析するのが、妥当だからである。

 

2-2. 「アクティブなテクスト」とは

 では、どのようにして、テクストにおいて、この「女子力」と「美しくなる努力」との結びつきの理解可能性を分析するのか。私は、ドロシー・スミスの「アクティブなテクスト」というアイディアをもちいて分析したい。

 上谷によれば、ドロシー・スミスの「アクティブなテクスト」とは、公的な文書やマス・メディアにおける言語使用のありかたを「テクストを読む」という実践の組織化のありかたとして捉えようするものである(上谷 1996:p.87)。「テクストを読む」という実践の組織化のありかたとは、「テクストを読む」という実践をひとつの「相互行為」として扱い、ある出来事が「客観的である」「事実である」ようにみえるということも、局所的に社会的に組織化された現象として考えるということである。上谷は、ある出来事が局所的な場面を超えて実在するように見えるのは、局所的な場面において言語が一定のやりかたで組織化されているからであり、そのような局所的な言語使用実践においてのみ成立することがらだと述べている(上谷 1996:p.88)。「アクティブなテクスト」においてスミスが目指すのは、あるテクストがこのように読めるということを報告するだけではなく、そのような報告がどのような言語使用実践において可能になるのかを合わせて明らかにすることであると上谷は主張している(上谷 1996:p.88)。

 テクストにおける「女子力」と「美しくなる努力」の理解可能性を明らかにすることを目的とする本稿にとって、そのテクストがどのような言語使用実践によって理解可能になっているかを問う「アクティブなテクスト」というアイディアは、適していると考えられる。

 そして、スミスの「アクティブなテクスト」によれば、「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきの理解可能性を明らかにするには、その理解可能性が、局所的な場面で、どのような言語使用実践においてなされているのかを明らかにすることが、必要であるということである。

 

2-3.「想起のため」のデータ

 本稿では、『日経WOMAN』の女子力特集の一断片を分析するデータとして使いたい。それは、次の理由からである。

 近藤は「女子力」の意味を分析するさい、「女子力」に関する記事を100件以上収集した。間宮が指摘するように、近藤のような言語使用を収集するタイプの分析においては、データが恣意的に収集・使用されているとみなされないように、その提示の仕方を考えなければならない(間宮 2008:p.184)。近藤は、大宅壮一文庫の検索システムで「女子力」というキーワードで記事の収集をおこない、恣意性を回避しようとしていた。

 しかし、間宮は、「都合の良い」データを引き合いに出すやり方が求められる場合もあると主張している。われわれが読み、理解できる言語使用は、どのような仕組みから成り立っているのか。このような問いを探究する言説分析には、データ収集や使用に対する「恣意性批判」は当てはまらない。むしろ求められるのは、われわが言語使用をどのように理解しているのかをみやすいものとするのに、まさに「都合のよい」データなのである(間宮 2008:P.188)。

 研究対象としての言語使用を理解できるのはどういうわけかを、研究の読者に「想起させる」ためにデータを使用するというあり方である(間宮 2008:p.188)。

 では、「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきの理解可能性を問う本稿にとって「都合の良い」データとは、どのようなデータなのだろうか。それは、2009年10月号の『日経WOMAN』の「『女子力』は、こう磨く! “脱オス化”宣言!」の記事である。それは次の理由からである。

 近藤の分析によれば、「女子力」の特徴は、「美しくなる努力」が社会的強制力としてのPBQ*1ではなく、仕事に対するモチベーションを高める手段として意味することであった。そして、その事例として下記の『日経WOMAN』の記事が引用されていた。

 “気持ちの切り替え”という意味では、メイクやファッションに気を配 ることも重要。『女子にとって仕 事モードへのまたとないリセット法がお化粧』(日経WOMAN 2009:p.10)。

  すなわち、この記事では、「女子力」が、仕事に対するモチベーションを高める手段として、「美しくなる努力」と結びついて語られているのである。近藤が、この分析は示すさいに、例として2009年10月号の『日経WOMAN』の「女子力」特集の記事を提示していることから、この記事が「女子力」と「美しくなる行為」について端的に理解できる記事であると考えられる。このことから、この記事が、本稿の問いにとっても「都合の良い」データであるといえるだろう。

 次の章では、この記事を分析し、「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきが、どのような言語使用実践によって、理解可能になっているのかを明らかにしたい。

*1:

(注1)ナオミ・ウルフは、女性の「美しさ」が女性の雇用や昇進の条件となることを「美の職業資格(Professional Beauty Qualification)」と呼ぶ(wolf 1991=1994:p.40)。

 

「女子力」を教示する技法ー気持ちを切り替えるための「美しくなる努力」 はじめに・先行研究

長年、「〇〇力」について関心があり、卒論では、ポスト近代型能力について書いた。今回は、卒論では、取り上げなかった「女子力」について考察した。おそらく「〇〇力」について調べるのは今回で最後だと思う。

 

0.はじめに

 「女子力」という言葉が、2009年に新語・流行語大賞にノミネートされた。 2009年以後も「女子力」は、雑誌や大学の広報、書籍など様々なメディアで使われ続け、近年では「女子力」に関する研究もおこなわれるようになった(馬場・池田 2012;米澤 2014;近藤 2014)。

 「女子力」に関する先行研究で共通に述べられているのが、「女子力」は、広告や雑誌の記事ごとに、「女子力」の意味が異なっている多義的概念であるが、主にメイクやファッションなどによって美しくなるという「美しくなる努力」を意味しているということである。しかし、「女子力」が多義的でその都度意味が変わるのならば、なぜ研究者や読者は、その都度、その「女子力」を理解できるのだろうか。それは、その広告や雑誌の記事ごとに、その都度、「女子力」の「説明」がなされ、それによって、その広告や雑誌の記事における「女子力」が理解されているからであると私は考える。

 では、その「女子力」の説明は、どのようにしてなされているのだろうか。本稿の目的は、「女子力」が、どのような説明によって理解可能なっているのかを問うことである。

 

 

1.「女子力」研究

 

1-1.「女子力」の多義性

 これまでの先行研究によれば、「女子力」は、安野モヨコが雑誌「Voce」(講談社)で1998年から連載をしていた「美人画報」というコラムで使い始めた言葉である。安野モヨコが、「美人画報」で使い始めたさいの「女子力」の意味は、女性の美しくさや男性を惹きつける力という意味だった。

 その後「女子力」は、2009年に新語・流行語大賞にノミネートされ、雑誌や広告、書籍など様々なメディアで使われ続けた。その結果、「女子力」の意味は、主に外見の美しさを意味するが、内面を充実させることや自己主張ができること、仕事ができることなど、多様な意味を持つようになったと近藤は述べている(近藤2014:p.27)。

 

1-2.「女子力」の社会的背景と特徴

 「女子力」が広まった社会的背景について、池田と米澤は、「美しくなるためにさまざまな努力を行うこと」が「女子力」と定義され、それが女性向け市場と結びつき「女子力アップ」を謳う化粧品やグッズ、スキルなどの情報が、女性誌や化粧情報誌などで繰り返し語られたためであると述べている(馬場・池田 2012:p.21-3;米澤 2014:p.4)。また、近藤は、今の日本社会が、女性が社会で活躍することを諦めていたかつての時代とは異なり、女性が男性に対する従属から自由になろうとしている社会であるからであるとも述べている(近藤2014:p.33)。

 「女子力」の特徴について米澤は、「女子力」は、ファッションやメイクによって女性を妻や母という社会的役割や良妻賢母規範から脱却させる「装いの力」であり、その力は女性が女性として生きていく原動力になると主張している(米澤2014:p.191)。しかし、近藤は次のように「女子力」の問題点を指摘する。(近藤 2014:34)。

 

  「女子力」は、「女性は美しくなければならない」という「美 の神

  話」でもある。しかも、女子力は、努力に よって向上できる「能

  力」であり、「他人に強制されなくても、 女性なら誰もが美しくな

  りたいと思い、また、そうなれるように自ら努力するはずだ」という

  ことをどこかで 前提にしてしまっている概念であるので、女性たち

  をこれまで以上に美しさに執着してしまわせ、美しくな い女性には

  これまでとは違った形で生きづら   さを感じさせてしまうところが

  ある(近藤2014:p.34)。

 

 つまり、「女子力」は主に自ら美しくなるように努力することを意味しているため、女性たちを美しさに執着させ、生きづらさを感じさせる可能性があるのである。

 

1-3.「女子力」研究のまとめと問いの再設定

 上記の先行研究から、「女子力」は、ファッションやメイクなどの「美しくなる努力」と強く結びついていることがわかった。そして、その両者の結びつきは、女性の生きていく原動力になるが、生きづらさを感じさせるものにもなるということがわかった。

 しかし、「女子力」が、女性の生きていく原動力や生きづらさにつながるためには、「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきについての説明が、理解されなれければならない。先行研究では、この両者の結びつきの理解可能性について問われてはいないようである。 そこで、本稿では、この「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきが、どのようにして理解可能になっているのか、を本稿の問いとして再設定する。これを明らかにすることによって、美への執着や生きづらさといった「女子力」の問題が起きる仕組みについても考えていきたい。