日常文庫@紅花読書会

日常に関すること。山形市で紅花読書会を開催しています。

「女子力」を教示する技法ー気持ちを切り替えるための「美しくなる努力」 はじめに・先行研究

長年、「〇〇力」について関心があり、卒論では、ポスト近代型能力について書いた。今回は、卒論では、取り上げなかった「女子力」について考察した。おそらく「〇〇力」について調べるのは今回で最後だと思う。

 

0.はじめに

 「女子力」という言葉が、2009年に新語・流行語大賞にノミネートされた。 2009年以後も「女子力」は、雑誌や大学の広報、書籍など様々なメディアで使われ続け、近年では「女子力」に関する研究もおこなわれるようになった(馬場・池田 2012;米澤 2014;近藤 2014)。

 「女子力」に関する先行研究で共通に述べられているのが、「女子力」は、広告や雑誌の記事ごとに、「女子力」の意味が異なっている多義的概念であるが、主にメイクやファッションなどによって美しくなるという「美しくなる努力」を意味しているということである。しかし、「女子力」が多義的でその都度意味が変わるのならば、なぜ研究者や読者は、その都度、その「女子力」を理解できるのだろうか。それは、その広告や雑誌の記事ごとに、その都度、「女子力」の「説明」がなされ、それによって、その広告や雑誌の記事における「女子力」が理解されているからであると私は考える。

 では、その「女子力」の説明は、どのようにしてなされているのだろうか。本稿の目的は、「女子力」が、どのような説明によって理解可能なっているのかを問うことである。

 

 

1.「女子力」研究

 

1-1.「女子力」の多義性

 これまでの先行研究によれば、「女子力」は、安野モヨコが雑誌「Voce」(講談社)で1998年から連載をしていた「美人画報」というコラムで使い始めた言葉である。安野モヨコが、「美人画報」で使い始めたさいの「女子力」の意味は、女性の美しくさや男性を惹きつける力という意味だった。

 その後「女子力」は、2009年に新語・流行語大賞にノミネートされ、雑誌や広告、書籍など様々なメディアで使われ続けた。その結果、「女子力」の意味は、主に外見の美しさを意味するが、内面を充実させることや自己主張ができること、仕事ができることなど、多様な意味を持つようになったと近藤は述べている(近藤2014:p.27)。

 

1-2.「女子力」の社会的背景と特徴

 「女子力」が広まった社会的背景について、池田と米澤は、「美しくなるためにさまざまな努力を行うこと」が「女子力」と定義され、それが女性向け市場と結びつき「女子力アップ」を謳う化粧品やグッズ、スキルなどの情報が、女性誌や化粧情報誌などで繰り返し語られたためであると述べている(馬場・池田 2012:p.21-3;米澤 2014:p.4)。また、近藤は、今の日本社会が、女性が社会で活躍することを諦めていたかつての時代とは異なり、女性が男性に対する従属から自由になろうとしている社会であるからであるとも述べている(近藤2014:p.33)。

 「女子力」の特徴について米澤は、「女子力」は、ファッションやメイクによって女性を妻や母という社会的役割や良妻賢母規範から脱却させる「装いの力」であり、その力は女性が女性として生きていく原動力になると主張している(米澤2014:p.191)。しかし、近藤は次のように「女子力」の問題点を指摘する。(近藤 2014:34)。

 

  「女子力」は、「女性は美しくなければならない」という「美 の神

  話」でもある。しかも、女子力は、努力に よって向上できる「能

  力」であり、「他人に強制されなくても、 女性なら誰もが美しくな

  りたいと思い、また、そうなれるように自ら努力するはずだ」という

  ことをどこかで 前提にしてしまっている概念であるので、女性たち

  をこれまで以上に美しさに執着してしまわせ、美しくな い女性には

  これまでとは違った形で生きづら   さを感じさせてしまうところが

  ある(近藤2014:p.34)。

 

 つまり、「女子力」は主に自ら美しくなるように努力することを意味しているため、女性たちを美しさに執着させ、生きづらさを感じさせる可能性があるのである。

 

1-3.「女子力」研究のまとめと問いの再設定

 上記の先行研究から、「女子力」は、ファッションやメイクなどの「美しくなる努力」と強く結びついていることがわかった。そして、その両者の結びつきは、女性の生きていく原動力になるが、生きづらさを感じさせるものにもなるということがわかった。

 しかし、「女子力」が、女性の生きていく原動力や生きづらさにつながるためには、「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきについての説明が、理解されなければならない。先行研究では、この両者の結びつきの理解可能性について問われてはいないようである。 そこで、本稿では、この「女子力」と「美しくなる努力」の結びつきが、どのようにして理解可能になっているのか、を本稿の問いとして再設定する。これを明らかにすることによって、美への執着や生きづらさといった「女子力」の問題が起きる仕組みについても考えていきたい。

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #9

He studies the semantic and theoretical strategies by which speakers identify themselves or react to others, his analysis concentrates on the use of particular nouns or verbs such as 'mother,' 'baby,' 'shortstop,' 'baseball team,' 'hairstylist,' or activities such as 'crying,' 'doing fashions,' or 'having sexual problems,' which serve as markers of social relationships.

 

訳:彼は、話し手たちが、自分自身を同定したり、相手に対して反応を示したりする、言葉の意味や理論に関する諸戦略の研究をおこなっている。その彼の分析は、特定の諸名詞か諸動詞の使用に集中している。例えば、「母親」、「赤ちゃん」、「野球の遊撃手(ショート)」、「ベースボールチーム」、「ヘアスタイリスト」、または諸活動、例えば、「泣く」、「服や生活様式などの流行にのること」、「性的問題を抱えること」、など社会的諸関係において指標としてもちいられているものである。

 

メモ:'doing fashions,'が、いかなるものかわからないかった。おそらく、流行にのることだと思うけど。サックスの流行の分析なんてあるのかな。今度探してみよう。

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #8

But unlike the linguists, who in their concern with literary style tend to be concerned with texts per se, Sacks focuses specifically on verbal exchanges between speakers.

 

 訳:しかし、言語学者とは異なっている。文体論について関心がある言語学者は、テクストそれ自体に関心を向ける傾向があるが、サックスは、話し手間の会話のやりとりに特に関心を向ける。

 

literary styleがよくわからなかった。辞書で調べても文語体としかでてこない。文語体に関するがあるだと、古典の文章に関心があるという意味にもなるので、何か違和感があった。言語学と一緒にググると、文体論というものがヒットした。Wikiでみると文体論は、文章の社会的な形式や性質を研究する応用言語の分野のようだ。literary styleは、これを指している気がする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/文体論

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #7

 Sacks deals with material on which linguists have also worked-the coherence of texts [how it is that sentences are heard as a connected text and not as an arbitrary list (Hassan 1968)] and the delimitation of semantic fields.

 訳:サックスは、言語学者も考えていた題材である、意味の諸領域の境界やテクストの一貫性の働き[どのように文が、気まぐれな一覧ではなく、関連したテクストとして聞かれるのか(Hassan 1968)]について論じている。

 

Hassanはたぶん下記の人だろう。

Ruqaiya Hasan - Wikipedia, the free encyclopedia

 

翻訳だと下記の2つがあるか。

https://www.amazon.co.jp/機能文法のすすめ-ハリデー-マイケル・アレクサンダー・カークウッド/dp/4469211699/ref=la_B004LQDRYK_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1473610352&sr=1-1

https://www.amazon.co.jp/テクストはどのように構成されるか―言語の結束性-言語学翻訳叢書-ハリディ-M-K/dp/4938669900/ref=la_B004LQDRYK_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1473610352&sr=1-2

 

言語学の用語や問題関心をわかっていないと理解しづらいな。

 

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #6

 There must, therefore, be implicit kinds of knowledge in terms of which this ability can be explained.

 訳:そのため、この能力が説明可能となる点から、それとなく示されるタイプの知識があるに違いない。

 

 implicitは、どう訳すべきなのだろうか。

辞書を調べると、暗黙や潜在的という意味があったが、あまりこれらのよくわからない言葉を使いたくなかったので、〈それとなく〉にした。

 

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #5

 The initial observation is quite like that of grammar: We understand sentences rapidly and unreflectingly in terms of relationships that are not overtly expressed.

 訳:初期の観察は、(次のような)完全に基本原理のようなものであった。私たちは、はっきりと述べられていない〈関係の論理〉の観点から、すぐによく考えもせずに文を理解する。

 

relationshipsは、ただ関係だと意味がわからないので、論理学の関係の論理だと思われる。

grammarも、文法だと意味がわからないので、基本原理とした。

 

「端的な理解」について、言っているのだろう。

 

 

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #4

 In the present chapter, which contains material to be incorporated in more detailed form in his book (Sacks in press), he develops a conceptual apparatus for the empirical study of the specific ways in which what Garfinkel calls practical reasoning is used in everyday discourse.

 訳:本章は、彼の著作(サックスの近刊)の中で、非常に詳細なタイプのもので、具体化された題材から成っており、彼は、(本章のなかで)、ガーフィンケルが、日常会話のなかで使用される実践的な推論と考える、その特有の方法に関する経験的な研究のために、概念的な装置を発展させている。

 

()は付け足した。

the specific waysは、エスノメソドロジーを指しているのだろう。

incorporatedを具体化と訳したが、イマイチしっくりこない。