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P.ウィンチ『社会科学の理念−ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』第2章

久しぶりのUPです。第2章を簡単にまとめました。私がわかりにくいと感じたウィンチの例や文は、適宜すこし変更しました。もし理解が間違っているところがありましたら、ご指摘頂けると嬉しいです。

 

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

 

 

1.哲学と社会学

「人間による現実の理解」という哲学の問題とは、人びとが現実を理解するさいの前提となっている概念が、「社会における人びとの相互関係」においてどのように使用されているのかーすなわち、どのような規準や条件において概念が使用され、人びとの現実理解が可能になっているのかを明らかにすることであると1章でウィンチはいった。

その人びとがもちいている概念を明らかにするためには、その概念を「社会における人びとの相互関係」という社会的文脈に置かねばならないと、ウィトゲンシュタインの規則に関する議論からウィンチは考えている。つまり、ウィトゲンシュタインの「受け入れるべきもの、所与、とはいわば生活の諸様式である」ということが、哲学の問題において非常に重要なのである。

 

また、この哲学の「生活様式(人びとの現実理解を可能にする条件)」を解明するということは、「社会現象(人びとが関わりあうこと)」を解明する社会(科)学の目的でもある。この社会(科)学の問題である「社会現象」の解明とは、経験的な問題ではなく、哲学の問題(経験を可能にする概念の水準)であるとウィンチは力説する。

社会(科)学の研究において、「言語」・「意味」・「理解可能性」といった概念それ自体が、問われることはほとんどない。「類似した概念が、さまざまな社会の言語においてどのように異なるか」をテーマとした経験的研究がおこなわれるくらいである。そのような概念自体を問わない社会(科)学の方法では、次のような重要な事実が見過ごされてしまっているとウィンチは嘆く。それは、社会(科)学の研究においてもちいられている概念は、そもそもその意味を人びとの社会的な相互作用に依存しているという事実だ。

 

 

2.有意味な行動

さて、ここからがこの第2章の本題である。「規則の適用」に関するウィトゲンシュタインの議論は、言語の本質を明らかにするものであった。では、このウィトゲンシュタインの「規則の適用」に関する議論を、言語以外の人びとの相互作用における様式に敷衍すると、どのような答えを与えてくれるのだろうか?

 

 ウィンチによれば、相互作用における様式とは、意味=シンボリックな特性をもつ有意味な行為である。では、この有意味な行為とは、いかなるものなのだろうか?

この問いに対して、有意味な行為とは、行為者を未来の特定の行為に拘束することにおいて、他の一連の諸行為と相携えているものであるとウィンチは答える。この「有意味な行為=未来の特定の行為への拘束」は、1章でウィンチがいった「規則の適用」と同じものである。

規則の適用とは、行為が一定の仕方で進行し、他の人が当然のこととして同調できる場合であった。つまり、規則が適用された行為は、未来の特定の行為を予期することができるということである。規則が適用された行為が、未来への特定の行為を予期可能にし、有意味な行為として理解されるのである。

それは、なにがしかの理由があって行為をするから、その行為が有意味になるのではなく、規則の適用がなされた行為だから、有意味になるということである。そして、ある行為が規則に従っていると理解されるためには、その行為を理解可能にさせる社会的環境(文脈)が必要である。

例えば、昨日、Nさんが投票に行ったといったとする。このNさんの昨日の行為が、「投票」という有意味な行為として理解されるためには次の2つの条件が必要になる。

 

⑴ Nが特定の政治制度(特定の議会とその議会に関係する政府)をもつ社会に住んでいること(日本であれば、国会[議会]、内閣[政府])=社会的文脈

⑵ Nが選挙制度の規則についての知識をもち、適切にその規則を適用していること(日本であれば、20歳以上の有権者が、議会に参加する代表者を選び、その選ばれた代表者が多い党が政権与党となる)

 

 この2つの条件が整わなければ、Nさんの昨日の行為は「投票」という有意味な行為として理解することはできない。投票は20歳以上の有権者しかできないので、もしNが20歳未満であれば、適切に選挙制度の規則が適用されていないので、Nの昨日の行為は「投票」とはいえず、有意味な行為にはならない。

 

3.活動と格率

ウィンチは、自分の考えに対して批判もあるだろうと、次のような批判を想定している。

「私たちは、ある種の活動においてはたしかに規則を守っているが、規則を守らない活動もしているではないか? たとえば、自由思想を抱くヒッピーは、修行僧と同じ意味で規則に縛られた生活をしているとは思えない。それならば、これらの非常に異なった生活様式を、『規則に従う』という同じカテゴリーに含めることは誤りではないだろうか?」

 

このような修行僧は規則に従っていると思えるが、ヒッピーは規則に従っているとは思えないという批判に対して、ウィンチは修行僧の行動もヒッピーの行動もどちらも規則に従ったものであると反論する。修行僧とヒッピーの行動の違いは、一方が規則に従い、他方が従わないということではなく、各々が従っている規則の性質が異なっていることにある。

修行僧の規則とは、修道僧の生活が明示的かつ厳格に定められたさまざまな規則によって制約されているということである。それらの規則は、行為が必要とされる状況での個人的選択の余地を可能な限り取り除いている。

一方、ヒッピーの規則とは、明示的で厳格な規範には支配されないことを規則としていることである。男性のヒッピーが、ヒゲを伸ばし、バンダナを頭に巻き長髪でジーンズを履くという特定の行為(ヒッピーにおいて有意味な)を選択するのは、その行為がヒッピーの規則において適切なものだからである。

 

さらに、ウィンチは自分の主張の論拠として、イギリスの政治哲学者のM・オークショットの見解を援用する。オークショットは、人間の知性と合理性の本質に関する「合理主義的」誤解というものを拒否している。この「合理主義的」誤解によれば、人間行動の合理性とは、人間の知的機能である脳からなされるもので、個々の生活様式において働くとはいえ、原則上それらの生活様式とは全く関係のないものである。

この見解に対してオークショットは、一般に人間の生活において、追求される目的とその目的のために採用される手段は、いずれも社会的活動の諸様式を生み出すどころか、それらは社会活動の諸様式が前提となって存在していると批判する。先ほどのヒッピーの例でいえば、ヒッピーは、「あの男はヒッピーだ!」として他者から理解されるために、ヒゲを伸ばし、バンダナを巻き長髪でジーンズを履くという実践をしている。その実践には、ヒッピーの世間の厳格な規範には従わないという規則が前提となっている。そして、この人間の行為における規則は、修行僧もヒッピーも各々の諸規則に従っていたように、決して一組の明示的な格率(規範)に要約されることはないとオークショットはいう。

つまり、規則はその実践(「修行僧である」ことや「ヒッピーである」こと)と分かちがたく結びついており、他者にその実践が理解されるには、その実践において適切な規則が適用されいなければならないということである。

 

4.規則と習慣

さきほどまで、オークショットの意見に賛成していたウィンチだが、ここから(2章の4節と5節)はウィンチのオークショット批判が展開される。

オークショットはいう。ほとんどの人間行動は、習慣(or慣習)という概念によって適切に記述することが可能である。人間の行動において、規則の概念も反省の概念も不可欠なものではない。習慣的な行動とは、規則が意識的に適用されないものである。規則に従った行動とは、規則が意識的に適用されたものである。

 つまり、オークショットは、行動には習慣的なものと規則に従うものがあり、その違いは規則が意識的に適用されているか(自分の従っている規則を明確に述べられるか)どうかにある、と考えている。

ウィンチはオークショットの規則の適用に対する考え方に反対する。ある人の行為が規則の適用であるかどうかは、彼がその規則を明確に述べられるかどうかではない。規則の適用における適切な仕方と、不適切な仕方を区別できるかどうかによって決まるとウィンチはいう。

ウィンチのいう行為における規則の適用は、規則の適用における適切/不適切な仕方を区別できるかどうかにあるとは、どういうことだろうか。ウィンチは、物事の仕方を学ぶことについて考えることで、この問いに応える。

物事(行為)の仕方を学ぶとは、単に他人の行為をまねることではない。同じ仕方を行うだけではなく、どのような仕方が同じであるとみなされるのかも学ばなければならない。同じ仕方であるとみなされれば、それは規則の適用において適切な行為となり、同じ仕方ではないとみなされれば、規則の適用において不適切な行為として理解される。つまり、物事の仕方を学ぶとは、何が同じ(適切)で、何が同じではない(不適切)とみなされるかの規準(規則)を学ぶということである。

そして、物事の仕方を学んだ人が、規則が適用されている(同じ仕方である)と教えた人にみなされるためには、はじめに示されたものを示すだけではなく、はじめに示されたものとは違ったものも示さなければならない。ここでウィンチは、ウィトゲンシュタイン自然数の規則を教える先生とその生徒の例を出す。

 

 先生「0,1,2,3,4,5,6。これと同じように自然数を書いてみよう。さらにこの続きも書いてみ 

    よう」

   生徒A「0,1,2,3,4,5,6,0,5,6

   先生「不正解!」

   生徒B「0,1,2,3,4,5,6,7,8,9

   先生「正解!」

 

生徒Aは、「0,5,6」と自然数の規則である「順番に書きつづける」という規則を適用していないので、不正解(同じ仕方ではない)であるとみなされ、一方、生徒Bは「7,8,9」と自然数の規則「順番に書きつづける」を適用しているので、正解(同じ仕方)であるとみなされている。

 また、習慣の獲得と規則の習得においても、その意味は違う。もし人間が、犬に「おすわり!」と命令すると、犬がおすわりをするという習慣を身につけさせたとする。これは、犬が、過去の自分に生じたことのゆえに、今一定の仕方で人間の命令に反応しているだけである。 一方、私が自然数列を100を超えてつづけるように言われたなら、私は、私の過去の訓練のゆえにしかるべき仕方でつづけることができる。しかし、「のゆえに」という言い方はこれら二つの状況では異なる。犬は一定の仕方で反応するように「条件づけ」られているのに対して、私は、私が規則を教わったことのおかげで、進むべき正しい途を知っているのである。

つまり、犬は習慣を獲得するために、「同種の場合に同じことをする(「おすわり!」ーおすわりをする)」で何が意味されているかを全く理解する必要がない。対して人間は、規則を身につけたと言われるために、「同種の場合に同じことをする」で何が意味されているか(規則の適切な使用方法)を理解しなければならない。

 

5.内省

この節が、この章の最後の節になる。感慨ひとしおである。この節は、前節に続きウィンチのオークショット批判が展開される。では、この節でウィンチは、オークショットのどのような意見に反対しているのだろうか。

オークショットは、状況の変化に応じた習慣の変化とその適応は、内省とはかかわりなく生じるという。オークショットによれば、「私は今ここで何をすべきか」という形式のジレンマは、明確に定式化された規則に自覚的に従おうとする人にのみ生じるのであって、習慣に無反省に従っている人に生じることはない。

しかし、ウィンチは、内省の可能性は、状況に応じた適応性には不可欠なものであるとオークショットの主張に反対する。なぜなら、内省の問題は、これまで経験したことのない状況に対処しなければならない場合には、誰にでも必ず生じるものであるからである。内省がなければ、私たちの行為は、有意味なものではなくなり、その行為は刺激に対する単なる反応か、または真に盲目である習慣の発言となるとウィンチはいう。

なぜ、内省がなければ、私たちの行為は有意味なものとならないのか。ウィンチは次のように応える。この「内省的諸原理」は、行為の適切な規則の適用(有意味な行為)を通して、産出され、把握される。つまり、「内省的諸原理」と「有意味な行為」とは、織り込みあっているのである。

 

また、内省に対するオークショットの見解は、オークショットがその議論のはじめに主張した極めて重要な論点と矛盾するとウィンチは指摘する。オークショットは、一方では道徳において内省は働かないといっているが、他方では道徳生活とは「選択が可能な行為」だとも述べている。たしかに、この「選択[項]」は行為者の意識に明示されている必要はない。しかし、少なくともそれは行為者の意識にのぼり得るものでなければならないとウィンチは考える。

ウィンチは、正直な人間の例をだしてこのことを説明する。正直な人間は、金を簡単に盗むことができる状況であって盗むことはない。違った行為(盗み)をするという考えは、全く彼には起こらない。それでも、彼は違った行為(盗み)をする選択項をもっている。なぜなら、彼は自分の置かれている状況と、彼がしている(またはしないでいる)ことの本質を理解しているからである。つまり、「盗む」という行為の選択肢がなければ、「盗まない」という行為が、理解され、道徳的に有意味(正直)になることはない。反対に、「盗む」という行為が理解され、道徳的に非難されるのは、「盗まない」という行為の選択が可能だからである。すなわち、何事かを理解するとは、それと反対のことを理解することも意味しているのである。