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『SWEET SIXTEEN』 「孤独」のデザイン

EM 映画
ケン・ローチ監督『SWEET SIXTEEN』を観た。
舞台はイギリスのスコットランド。もうすぐ16歳になる15歳のリアムが、服役中の母親が釈放されるまでに、家族で暮らす家を購入しようとヤクザのヤクを売るというお話。
 
この映画で素晴らしかったのは、リアムという少年がいかにして「だれにも頼ることができない」状態に陥るのかが、丹念に描かれていたことだ。
 
素朴な問題だが、リアムが「だれにも頼ることができない」状態であるとわかるのは、そもそもどうしてなのだろうか。それは、ケン・ローチ監督が、私たちにその状態がわかるように映画を作っているからである。では、ケン・ローチ監督は、リアムが「だれにも頼ることができない」状態に至るのかを私たちがわかるように、どのように映画をデザインしているのだろうか。このデザインがポイントなのかもしれない。
 
『SWEET SIXTEEN』では、主人公のリアムが親しい人間関係から排除される過程に主眼がおかれている。学校の先生や市役所などのケースワーカーなどの専門家はでてこない。まず映画の序盤では、母親の服役という母親からの物理的な排除、次に中盤では親友と争い、親友からの排除、最後に終盤では姉と争い、姉からの排除、出所した母親は恋人の所に行き、母親からの排除となる。つまり、映画の進行とともに徐々にそれまでにあった主人公の人間関係が、崩壊していくのである。
 
このリアムの人間関係が崩壊していき、リアムには「だれも頼ることができない」と私たちにわかるために、ここで用いられている装置がある。それは、「二人の人間がどのような関係にあるのか」ということを示す装置である。つまり、{〈親(母父)−子〉、〈姉−弟〉〈友達−友達〉、〈知り合い−知り合い〉、……〈他人−他人〉}という集合が使われていると考えられる。
 
この集合における二人関係には、相手が悩んでいたりしたときにお互いにどういう態度を取るべきか、あるいは取ってよいかについての規範がある。例えば、「子ども」が悩んでいたら「親」は気にかけたり相談に乗ったりすべきや、反対に、「知り合い」や「他人」には悩みを相談をするはずがないとか。
つまり、二人関係が集まっているこの集合を使うことによって、悩みを訴えるのにふさわしい二人関係と、そうでない二人関係とに分けることができるのである。
 
また、悩みを相談してよい二人関係のなかには、関係の強さの序列がある。例えば、悩みを抱える人は親がいればその親よりも先に友達に相談すべきないとか。つまり、この集合を使うことによって、悩みを相談してよい相手がいた場合、どういう順序で相談するべきかを決めることもできるのである。
 
このように、この集合という装置を使うことは、誰に・どういう順序で・悩み相談をすべきかという規範に従うことになり、それは悩んでいる本人だけではなく、悩んでいる人が誰に相談すべき・していよいかを他人が判断するさいにもこの装置は使うことができるのである。
 
ケン・ローチ監督は、この{〈親(母父)−子〉、〈姉−弟〉〈友達−友達〉、〈知り合い−知り合い〉、……〈他人−他人〉}という集合を巧みに使いリアムの「だれにも頼ることができないない」という孤独に至る過程をデザインしている。母親の服役中、母親の恋人やその恋人の父から虐待をされたさいにリアムが頼ったのは、姉や親友であった。そこには〈姉−弟〉や〈友達−友達〉という二人関係を使うことで、〈親(母父)−子〉という一番に頼るべき相手に頼れないことが表現されている。そして、集合における関係の強さの序列を使用し、まず〈友達−友達〉、次に〈姉−弟〉、最後に〈母−子〉という関係の弱い順に関係性を失うことによって、リアムが「頼るべき相手がいない」という孤独に至る過程を端的に表現しているのである。

 

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