第1章の概要
『社会科学の理念』におけるウィンチの目的は、次のような考え方を批判することにある。社会科学は、まだ哲学の影響から抜け出せない未熟な状況にあり、社会科学が進歩するには、哲学の方法ではなく、自然科学の方法に従わなければならない(Winch 1958=1977:1)。この目的を達成するために、ウィンチは今日流布している「哲学」と「社会研究」に関する考え方を批判する。
第1章でウィンチは、まず今日流布している「哲学」の考えた「下働き(としての哲学の)概念」を批判する。ウィンチは、下働き概念を次のような考え方であると説明している。新しい知識は科学の実験的・観察的方法によって獲得されるものである。哲学は、その科学に用いられている言語の混乱を取り除くのが仕事である(Winch 1958=1977:6)。
この下働き概念は、哲学を「科学の長」とする見解への反発から生じている。下働き概念によれば、現実の本質を探究するのは科学の仕事であり、哲学の仕事ではない。しかし、ウィンチは、この下働き概念の考え方に対して次の3点を批判している。
まず第1に、科学と哲学では現実の本質を探究することにおいて、目的が異なる。科学は、「個々」の現実の事物や過程について実験や観察をして、研究をする。一方、哲学は、現実の本質そのものを、その「一般性」において研究をする。つまり、哲学は、現実に対する「概念」の水準において問うのである。
個々の事例に対する実験では、この哲学の問題に答えることができない。なぜなら、個々の事例について実験するということは、すでにその事例を「現実のもの」として理解しているからである。
第2に、哲学は言語の混乱に関するすべてに関心はない。哲学にとって言語の混乱は、びとびとがどのように現実を理解しているのかと問う場合にだけ、意味がある。下働き概念は、「現実」と「ひとびとが現実を記述するさいに使用している言語」を切り離し、哲学の問題は言語からのみ生じていると矮小化している。わたしたちは言語を通じて現実を経験をしている。言語を欠いた経験は不可能である。すなわち、言語と現実を切り離して論じることは、このような言語と現実の関係を問うことを回避することになるのである。
第3に、下働き概念を信条にしているひとたちも、言語を通じて現実を理解可能にしている。現実と言語を切り離す経験主義者も、現実の本質の解明は経験的なものでなければならないと考える。しかし、その経験主義者でさえ、「事物」や「事物の性質」、「因果関係」などの言語を用いて現実の理解を可能にしている。したがって、社会科学の問題は、経験的な調査によってだけ取り組まれるものでない。わたしたちの現実を理解可能にしている言葉(概念)を分析することで、解決される問題もあるはずである。
ウィンチの上記の議論は、現実の本質と理解可能性(inteligibility)に関する問題を前提にしている。では、理解可能性(何かを理解する)とは、どのようなことなのだろうか。理解可能性という概念の意味は、それが使用されている個々の文脈ごとに異なる。科学者や宗教家、芸術家はそれぞれ現実をより理解し得るものにしようとしている。しかし、それぞれの目的は異なるため、それぞれの理解可能性という概念をまとめることで、理解可能性の意味を特定することできない。したがって、ウィンチは、哲学の研究目的とは、理解可能性という概念の個々の文脈におけるあり方や、現実の理解を可能にしている基準や諸条件を明らかにすることであると述べている(Winch 1958=1977:25)。
では、現実を理解を可能にしている基準や諸条件を明らかにすることとは、どのようなことだろうか。わたしたちは、ある人が同じような状況で常に同じような行動をしている場合、彼は規則に従っているといいたくなる。しかし、どのような場合にその人が規則に従っているといえるのだろうか。ウィンチは次のように述べている。ある人の行動は、一定の仕方で進行している彼の行動に他の人が当然のこととして同調でき、それによって彼の行動を把握できる場合にのみ、規則に従っているというカテゴリーに属するのである(Winch 1958=1977:38)。例えば、こちらが「おはよう」と言い、相手が「おはよう」と返事をしたら、わたしたちはお互いに「挨拶-挨拶」という規則に従っていると理解できるだろう。
しかし、規則に従って適切に行為がなされているときには、その規則に気づいたり、考えたりはしない。規則に気づいたり、考えたりするのは、その規則に違背した不適切な行為がなされたときである。ウィンチは、規則に従うという概念は、誤りをおかすという概念と論理的に不可分であると述べている(Winch 1958=1977:39)。つまり、違背可能でなければ、規則とは呼べないのである。
そして、その違背は他者から認識可能でなければならない。知り合いに「挨拶」をして、返事がなければわたしたちはもう一度、挨拶をしたり、無視をした相手を非難をするかもしれない。それは、相手が「挨拶-挨拶」という規範に従っていない、背いたと理解できるからである。もし自分が決めたルールに自分だけが従っていたとしたら、それは他者から守られているか判断ができない。したがって、そのような違背が他者から認識不可能な規則は、規則とは呼べないのである。
第1章のよかった、面白いと感じた点
現実の理解の前提となっている概念を分析するという提言が、潔く格好良かった。私もひとびとは、その場に適切な概念を用いて行為を達成していると考えるからだ。確かに、社会調査の授業で、調査をする前に日常で使われている概念を操作的に定義をするべきであると習った。「友達」や「旅行」などを調査に合うように定義しなさいと 。しかし、ウィンチがいうように、そのように概念を操作的に定義することは、現実の理解の前提となっている概念を現実から切り離してしまうことになる。したがって、それでは、いつまで経っても現実の理解を探究することはできないだろう。
第1章の疑問点、気になった点
疑問点は2つある。1つは、現実の理解可能性を明らかにするとは、いったい如何にしてなされるのだろうか。行為を理解可能にしている概念を探究するということはわかった。では、どのようにしてその概念を探究するのだろうか。
2つめは、わたしたちは、言葉を通じて世界を理解しているとウィンチはいう。しかし、言葉は新しいものがでてきり、使われなくなったりと変化をする。 その場合、わたしたちの世界の理解も言葉と同様に変化するのだろうか。変化するとしたら、それはどのようにして変化をするのだろうか。