日常文庫@紅花読書会

日常に関すること。山形市で紅花読書会を開催しています。

読書メモ:イェスパー・ユール著 松永伸司訳(2005→2016)『ハーフリアル—虚実のあいだのビデオゲーム』

 

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム
 

 

Chapter1 序論

P23 この本の主な主張は、ビデオゲームはルールかつフィクションであるというものだ。これは、ゲームはルールかフィクションのどちらなのかという長い歴史を持つ議論に対する応答になっている。

上記引用から

本書の問い:ゲームは「ルールかフィクションのどちらなのか」

本書の応え:ビデオゲームは「ルールかつフィクションである」

 

Chapter2 ビデオゲームと古典的ゲームモデル

 

この章の問いと答え

Q1:ビデオゲームとそれ以外のゲームはどういう関係にあるのか、

⇒A.ビデオゲームでは、ルールを管理するのが、人ではない。そのため、ビデオゲームでは、古典的ゲームと比べると以下の点でルールにおいて柔軟性がある。

・ルールを複雑にすることができる

・プレイヤーは、ルールを守らなけばならないという強制から解放される

・プレイヤーは、最初からルールを知らなくてもプレイできるゲームも可能になる

 

Q2:ゲームと非ゲームの境界はどうなっているのか

⇒A.P61の図を参照せよ。

ゲームと非ゲームの境界のゲームの一例

→『SimCity』は、下記の古典的ゲームモデルには適さない。 終わりのないシミュレーションで、明示的な目標をもたないからだ。つまり、結果に対する価値設定がない。

⇒あつまれどうぶつの森Minecraftも、終わりがなく、明確な目標がないから、似たようなものだろう。

 

古典的ゲームモデル(新しいゲームの定義):6つの特徴と上記3点との対応

  1. ルール
  2. 可変かつ数量化可能な結果
  3. 結果に対する価値設定
  4. プレイヤーの努力
  5. 結果に対するプレイヤーのこだわり
  6. 取り決め可能な帰結

まとめると

ゲームは、可変かつ数量化可能な結果を持ったルールにもとづくシステムである。そこでは、異なる結果に対して異なる価値が割り当てられており、プレイヤーは、その結果に影響を与えるべく努力をおこない、またその結果に対して感情的なこだわりを感じている。そして、この活動の帰結は取り決め可能である。p51

 

Chapter3 ルール

この章の問い

 Q1:ルールを構成するものが媒体(カード、ビデオゲームなど)でないとすれば、ルールとはいったいなんなのか? そして、ルールはどんな働きを持つのか?p76

⇒A:ルールは、プレイヤーの行為を制限するだけではなく、それにより行為に意味(当のゲーム内で有意味な行為とは何か)を付け加える。それにより、プレイヤーが意味のある行為をすることを可能にする。ルールはゲームに構造を与える。p80

ビデオゲームのルールは、キャラクタが動くことを可能にすると同時に、キャラクタがすぐに目標を達成してしまうわないようにするものだp81

 この上記引用から、ビデオゲームのルールには、①キャラクタの動きを意味のあるものにすること、②プレイヤーがゲームをすぐにクリアできないようにする挑戦課題であるという2つの機能があることがわかる。

Q2:楽しい挑戦課題を成り立たせているものはなにか。p78

シド・マイヤーはゲームの良質さを一文で言い表している。マイヤーによれば、ゲームの良し悪しは、与えられる選択肢が挑戦しがいのあるものであるかどうかにかかっている。p123

 Q2−1:ゲームが提供するのはどんな種類の挑戦課題なのか

 ⇒A:プレイヤー自身が持っている「手法」や「(スキルの)レパートリー」を絶えず拡張することを要求するような挑戦課題。ゲームをプレイする過程で、挑戦課題に打ち勝つスキルを身につけていくことが、ゲームの挑戦しがいを生み出し、ゲームを楽しくする。p129

 

 Q2−2:楽しい挑戦課題はどのような仕方で提供されるのか

 ⇒A:↓

・進行型ゲームでは、個々の場面ごとに明確に定まったかたちで、挑戦課題を与えることできる。それゆえまた、デザイナーは、そのときどきの場面でプレイヤーが持つであろう予期やレパートリーに合わせるかたちで挑戦課題をデザインすることができる。p129

⇒プレイヤーの予期を裏切ったり、まちがったレパートリーのほうに目が行くように仕向けたりすることができる。p135

創発型ゲームでは、当のゲームのルールが新しい挑戦課題を作り出し続けるというかたちでデザインしなければならない。p129

⇒例:チェスパズル(詰め将棋みたいなもの)

創発型ゲームが、まちがった解き方を前面に押し出すようなパズル的な状況を自動的に作り出し、プレイヤーをひっかけてまちがったレパートリーを使わせる。p139

人間がひっかかってしまうのは、ゲームツリーの可能な局面をすべて探索するという仕方でゲームをプレイするのではなく、情報をチャンク化したり無視したりして当のゲームのなかにパターンを見つけるという仕方でゲームをプレイするからだ。こうした仕方でプレイすることは、しばしば、当のゲームを不正確に単純化したかたちで理解することにつながる。そしてその結果として、ゲームが以外なものに見えるのだ。

 

Chapter4 フィクション

この章の問い p155

Q1:ゲームで書かれる世界はどんな種類の世界なのか

⇒A:ゲームで書かれる世界は、「不完全」で「非整合的」な虚構世界である。pp.156−158

不完全とは?

〈虚構世界についての記述〉と〈実際に想像されるものとしての虚構世界〉は区別される

虚構世界のすべての部分を完全に特定するフィクションがないため、プレイヤーは虚構世界について描かれた記述を基にして、各プレイヤーはそれぞれの異なる虚構世界を想像する。そのため、虚構世界は、不確定箇所(空所)がある不完全(incomplete)なものになる。

虚構世界の欠落箇所は、受け手(プレイヤー)の知識によって補われたり、受け手のあいだで議論の的になる。

 

非整合的とは?

ゲームの虚構世界の空所を埋めるのにかなりの努力が必要な場合は、ルール指向的な説明に頼るしかない必要がある。以下、この種の虚構世界を「非整合的な世界」と呼びたい。p162

 

 本書では、『ドンキーコング』(任天堂 1981)のマリオの命(ライフ)が3つあることが、非整合的な世界の例としてでていた。命が3つあるということについて、『ドンキーコング』のゲーム内では特に説明はない。現実的に命は1つしかない。このマリオの3つの命というフィクションを説明するには、ゲームのルールの観点からでしか説明をすることができない。(命がひとつではゲームをプレイするのが難しすぎるからだとか)


1981 [60fps] Donkey Kong Loop11-3

 

Q2:ゲームはどのようにしてそうした世界を想像するようプレイヤーを促すのか

⇒A:任意選択的な世界

個人的にはこの考察が面白かった。『Quake Ⅲ Arena』というゲームをプレイするとプレイヤーは、はじめのうちはグラフィックに魅力を覚えるが、プレイ時間が増えるにしたがって、グラフィックが粗くなるようにマシンの設定を変え始めるようだ。

グラフィックを落とすとゲームの反応が向上するらしい。プレイヤーは慣れるとグラフィックよりも、ゲームのルールを強く意識するようだ。

著者のユールによれば、ふだんプレイヤーは作業の遂行のために、それに関連しない情報を無視している。

Quake Ⅲ Arena』のプレイヤーの例は、プレイヤーがグラフィックの高さがプレイに関係ないことを知っており、ゲームのグラフィックを落とすという行為から情報の無視がはっきりとわかるケースであるとユールは述べている。


Quake III Arena gameplay for the PC

 

 

Q3:ひとつのゲームが、虚構世界の想像を促すことと、それを妨げることのあいだを、いかに行き来するのか?

A:ゲームの非整合的な時間のあり方(虚構世界)に対して、現実のスポーツのラウンド制という知識が、プレイヤーの虚構世界に対する理解を促している。

ゲームの時間には二重性がある。現実の時間であると同時に虚構世界上の時間でもある。

・プレイ時間(ゲームのプレイの始まりから終わりの時間)

・虚構時間(ゲーム世界上で起こる出来事の時間)

アクションゲームや伝統的なアーケードゲームでは、このプレイ時間と虚構時間は一対一の「投影」関係である。「投影」とは、プレイヤーの時間と行為がゲームの世界に投影されて、その世界のなかで虚構的な意味を帯びることを指す。p178

 カットシーン(ゲーム内のイベントシーン、ムービーなど)の場面は、プレイ時間と虚構時間が断絶される。この断絶部分では、プレイ時間は虚構時間に投影されておらず、かつ、先行するステージの虚構時間と後続するステージの虚構時間のつながりもない。例:ペンゴ ステージのクリア後、ベートーヴェンの「歓喜の歌」に合わせてペンギンが踊る。↓8分10秒あたり


ペンゴAC版 Pengo

 

このようにプレイ時間と虚構時間の断絶という一見むちゃくちゃに見えるかもしれない非整合的な時間のあり方が、プレイヤーの支持を得ている理由について、ユールは、現実のスポーツや電子化以前のゲームが持つラウンド制に連なるものであると考察している。ラウンド制の構造は、ルールレベル(プレイ時間上)では理に適っている。実際のテニスや卓球の試合でも、独立した複数のラウンドによって一つの試合が構成されている。つまり、独立した複数のラウンドがひとつの虚構世界を構成しているのだ。

スペースインベーダー』は、このラウンドという考え方を取り入れつつ、同時に虚構世界を描いている。p185

 

Chapter5 ルールとフィクション

鉄拳タッグトーナメント』について「エディ・ゴルドはブラジル人で、カポエイラという武術を使って戦う」と言った場合、

次のことがわかる。

1 現実世界においては、エディ・ゴルドというブラジル人のカポエイラを使う人はいないが、『鉄拳タッグトーナメント』というゲームのフィクション(虚構世界上)には存在しているということ

 

2 それと同時に、現実世界の『鉄拳タッグトーナメント』のプレイヤーは、エディ・ゴルドというキャラクタを選択して、カポエイラという技を使って戦うことができるということ

 

つまり、「エディ・ゴルドはブラジル人で、カポエイラという武術を使って戦う」という言明は、そのゲームの虚構世界について述べるとともに、そのゲームの現実のルールについても述べているのだ。

 

ゲームの虚構世界は、現実世界に大きく依存するかたちで存在する。一方で、その虚構世界は、当のゲームがプレイされる現実世界についてプレイヤーが推測する手がかりを与えるものにもなる。p208

www.youtube.com

やっとフィクションとルールがつながった。

ユールによれば、虚構世界は虚構(フィクション)だけでは成り立たない。現実世界のルールが資源となって、虚構世界は成り立ちプレイヤーはその世界を理解する。しかし、虚構世界はプレイヤーがそのルールを理解する教示ともなる。

これがユールの「ゲームはフィクションかルールのどちらかだ」というゲーム研究の論争に対する応えなのだろう。

 

しかし、私たちは、ゲームをプレイするとき、どのようにしてフィクションとルールについて習熟していくのだろうか。ゲーム名をググってみると、そのゲームの攻略法(コツの教授)がネットには溢れている。私たちが、なんとか挑戦課題をクリアし、ゲームを楽しみたいというのがわかる。

どのように私たちはそのゲームのフィクションを理解し、挑戦課題をクリアする「手法」を身につけてるのか。私はその手続きが気になる。

 

Chapter6はまとめ