生きることは偶然性であると思う。
私たちはたまたまこの時代に生まれ、この場所で生きている。
肉を食べることもたまたまそれが可能な時代・場所にいるから食べているに過ぎないのではないだろうか。
必ず食べなければならないものでもないだろう。
本書の主人公のヨンヘは、まず肉を食べないという選択をし、最終的には水と光合成だけで生きる「木になりたい」と言う。
このような極端な選択に対して、読書会の参加者から宗教の信仰のように感じたという感想があった。
それに対して、別の参加者から、ヨンヘはそうせざるを得ない状況だったという応答があった。
ヨンヘは、幼少のころ父親から虐待されていた。成人後も、結婚生活は幸せとはいえず、夫からは標準的な女性・妻の役割を求められ、その夫もヨンヘが肉を食べなくなるとあっさりと離婚した。
私たちは生まれてくる家族を選べない。
昨今では、親ガチャとも言われる。
また、選んだ家族であってもそれが幸せであるとは限らない。必ず幸せになる方程式はない。
ヨンヘは、これまでずっと「家族」や「性別」における役割(カテゴリー)と結び付いた行為を求められ、それを強いられていたように思われる。
それは社会的に標準的な娘であること、標準的な女・妻であることである。
ヨンヘはそのような規範に苦しめられ、性別の概念が曖昧な木になることを切望したのではないだろうか。本章の中で、ヨンヘは食事をしないことで痩せて、第二次性徴期が見られなくなっていた。
本書において、ヨンヘが実践した肉を食べないこと・木になることは、非暴力による性規範への抵抗だったと考えられる。役割を適用され、抑圧された「私」ではなく、何者でもない「私」でありたいという実践である。それが信仰のように感じられるのかもしれない。
確かに、ただ単に肉を食べない・木になりたいという選択は、「考え方は人それぞれだから」で片付けらてしまうことだろう。読書会でもそのような意見はあった。
しかし、本書は、「冷徹」にその「人それぞれ」の前提となっている私たちの暴力性や性規範を炙り出し、深く楔を打つほどの鋭さを持っているように感じた。