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HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #2

translation EM

He received his doctorate from the University of California, Berkeley, and has taught at the University of California, Los Angeles.

 

 訳:彼は、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で教師をしている。

 

よくわかっていないが、この紹介の文章が書かれたのは、サックスの生前なのか、死後なのか。

has taught と現在完了形だから、生前なのかな。

HARVEY SACKS (1972) On the Analyzability of Stories by Children #1

EM translation

数年かけて、サックスの「子どものお話の分析可能性」を一文一文訳していきたいと思う。飽きずに最後までちゃんと訳させるかが心配だ。サックスの英語は難しいと評判なので、そこも不安である。

Harvey Sacks is an associate professor of sociology at the University of California, Irvine.

 

訳: ハーヴィ・サックスは、カリフォルニア大学アーバイン校の社会学の准教授である。

 

はじめは、サックスの紹介のようだ。

Wikiによると、カリフォルニア大学アーバイン校は1965年の設立で、コンピューター・ネットワークの研究がすごいらしい。

カリフォルニア大学アーバイン校 - Wikipedia

フランシス&ヘスター 『エスノメソドロジーへの招待』 1章社会的相互行為、言語、社会

EM Book

読書ノートのまとめとして、ブログを利用してみようと思う。

 

社会的相互行為

 

あらゆる社会的相互行為には、構造化されたものとしての性格をもつということ、意味は文脈によって理解可能になるということという二つの共通の特徴がある。6 

 構造化とは?

 ここでいう社会的相互行為には、ある人が他の人に向かって、もしくは他の人に対してある行為を生み出すような状況、あるいは相手の反応を引き出したり可能にしたりするような状況のすべてが含まれる。そうした行為はすべて、人物Aによって生み出された行為が、その行為への反応として人物Bができることを「条件づける」性格をそなえているという意味で、「構造化」されている。7-8

例として「自己紹介のやりとり」があげられている。AがBに自己紹介を したら、Bは自己紹介をすることが期待されている。

 

意味は文脈によって理解可能?

 そうした相互理解について適切な説明をしようとするなら、相互行為において意味が理解されるにあたって「文脈」が果たす役割を認識しなければならないと私たちは考えている。どんな語句も文も、その使用の文脈の外に取り出せば、理解しがたいものや曖昧なもになるだろう。しかし、その文脈のなかでは、それが何を意味するかはきわめてはっきりしている。したがって、もっとも平明ではっきりした意味でさえ、やろうと思えば、不確定な、問題をはらむものに変えることができる。意味を問題化するには、それを明白なものにしている文脈的な詳細を取り払えばよいのである。10−11

 文脈を取り外して、意味を問うても、その意味を理解することはできない。なぜなら、意味はその文脈と結びついているからだ。

 

言語

 相互行為はきわめて多くの場合言語を使っておこなわれている。私たちがするたいていの行為は、言語によって、そして言語を通じて実行される。……言語は社会生活のなかでおこわれるあらゆることの基盤になる。14

 

言語学との違い?

・この本の言語についての見方と生成言語学との差異 16
⑴ 抽象的な体系としての言語には関心がない
→コミュニケーションを実践的に媒介するものとしての言語が、私たちの関心の対象だから実際の使用場面において言語が文法に即していないからといって、コミュニケーション上の困難が生じることはない。
⑵ 話し手個人や、かれらの内側の言語的知識に関心はない
→人びとが言語を通じて「個人間の理解」をどのように達成するかということに関心がある
⑶言語理論家は、自分で文を作って分析するが、私たちは社会的相互行為にたずさわる現実の人間が実際に話したものをデータとして探求に使う
→人びとが協働してどのように言語を使い、自分たちがたずさわっている社会的活動を達成しているのかということに関心がある。
 

実際の使用場面での言語

言語は、理論的に定義された問題や課題と関連づけて理解される単なる要因や変数ではなく、何よりもまず、それを使って社会生活のあらゆる場面が実際におこなわれるような手段なのである。「実際におこなわれる」というのが、ここでのキーワードだ。社会のメンバーは、言語を使って社会的活動をおこない、そうした活動を通じて自分たちの生活を協働で作り上げる。23

言語の使用によって、社会的活動がおこなわれ、その社会生活の場面が達成される。

 

日常の話しことばでは、圧倒的に多くの場合、あらかじめ決まった言語表現が使われることはない。それどころか、人びとは、自分たちがそのなかにいる状況(そこには他の人のトークも含まれる)に「適合した」トークを自発的に作り出す。状況にトークを適合させるその作業は、何らかのあらかじめ決まったやり方に沿って成り立つのではなく、そのトークに使われることばが、「いまここ」で起こっていることについての特定の理解を表示するからこそ成り立つのである。24

人びとは、その状況に適切なトークをする。それは、その状況の理解を提示しながらおこなわれる。

 

社会

これまでも、今でも社会学者は、自分たちが作った理論的概念を使うことによって、一般の人たちには「隠された」社会的側面を明らかにできると考えている。しかし、エスノメソドロジーは、そのようには考えない。

ふつうの人たちはおそらく社会生活についての理論をもっていないし、それを作り出す活動にたずさわりもしないが、それは、自分たちの活動を実行するにあたってかれらはそんな理論を必要としないからである。

 ふつうの人たちはおそらく社会生活についての理論をもっていないし、それを作り出す活動にたずさわりもしないが、それは、自分たちの活動を実行するにあたってかれらはそんな理論を必要としないからである。29

 

したがって、「何が社会生活を説明するのか」という問いを立てて、ある社会理論の立場からそれに答えるのではなく、「社会生活を理解するにあたって、そして自分たちの活動を実行するにあたって、人びとはどのようにして適切な知識をもち、そしてその知識はどのようにして使用されるのか」という問いを立てることを、私たちは提案する。そうした知識を一般的な、文脈から切り離した形で記述するのではなく、特定の事例において、そうした知識がどのように使われているかに焦点を合わせる。31−32(傍線:筆者)

第1章は、意味と文脈の関係が特に強調されていた。これは、わかる気がする。本書のなかでも何度もでてきたが、意味と文脈の結びつきは、切り離されて分析されやすい。なぜ? わからないが、社会学者は「状況に埋め込まれた行為」に関心がないからか。研究者は、理論や方法論があると、それを使いたくてしかたなのかもしれない。ある種の病に近い。しかし、社会学は、理論や方法論を作ったり、もちいたりしたその時点で、人びとの実践(方法論)から離れていってしまう。したがって、実践と離れた理論や方法論を作らず、もちいず、意味と文脈が結びついているその場面に寄生し、どのように人びとがその意味を理解可能にしているのかを問うことが肝心なのだ。

 

 

エスノメソドロジーへの招待―言語・社会・相互行為

エスノメソドロジーへの招待―言語・社会・相互行為

  • 作者: デイヴィッド・フランシス,スティーヴン・へスター,中河伸俊,岡田光弘,小宮友根,是永論
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2014/04
  • メディア: 単行本
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前田泰樹さんの「『社会学的記述』 再考」も参考に。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/27128/3/shakaikg007sp0400010.pdf#search='前田+社会学的記述':image=https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/27128/3/shakaikg007sp0400010.pdf#search='前田+社会学的記述'

タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造1 総論』「第3章 行為理論における個人主義的実証主義の歴史的発展の諸段階」その1

EM Book パーソンズ

ホッブス問題を勉強するために『社会的行為の構造1 総論』の第3章を読んでみた。ここでは、パーソンズの紹介で簡単にすっ飛ばされるホッブス問題におけるパーソンズの議論を丁寧に追ってみたい。

 

結論をさきにいえば、第3章でパーソンズは、当時主流だった実証主義ホッブス問題を解決しようとすると、機械的な決定論に陥るため、それでは行為者たちの「主観性」や「無知」、「誤謬」などを取り逃がしてしまうと実証主義に異を唱えるのである。

 

第3章 行為理論における個人主義実証主義の歴史的発展の諸段階

 

パーソンズによれば、ホッブスの社会理論は、純粋な功利主義である。功利主義とは、人間は行為の目的と手段の関係を「能率的規範」に従って合理的に追求するという考えである。 

ホッブスは、自然状態において人間は次のように行為をすると考えた。人間行為の基礎は「情念」にある。「情念」は行為のばらばらでランダムに変化する目的である。これらの目的を追求する上で、人びとは最も有効な手段を合理的に選択する。その有効な手段とは、暴力と欺瞞である。すなわち、ホッブス功利主義的な仮定に従えば、人びとは自らの目的を達成するために、「互いに破滅しあい、屈服させようと努力する」のである。そこに社会秩序はなく、あるのは「万人の万人に対する闘争」というカオスだけである。

 

しかし、実際の社会はそのようなカオスにはなっていない。では、いったいどのようにして社会は秩序だっているのだろうか? とパーソンズホッブスの秩序問題にまっこうから挑んだ。そして、パーソンズは、ホッブスの社会契約論は、人びとの合理性を拡大解釈し過ぎであると切り捨て、違う理論でこの秩序問題を解決したいと考えたのである。

 

ホッブスの秩序問題を考えるにあたって、パーソンズはまずロックの議論と対比させた。

パーソンズがまず初めにロックをもってきたのは、ロックはホッブスと同様に、人びとは自らの目的を合理的に追求していくと功利主義的に考えたが、自然状態に対してホッブスとは違う考えをもっていたからである。

ホッブスの自然状態とは「万人の万人に対する闘争」であったが、ロックの自然状態とは「理性(自然法)によって統治された幸福な状態」であった。ロックの自然状態における人間観は、「理性的な」人間というものは、自分の目的を追求するさいに、自らの行為を何らかの規則に服従するべきであるというものだ。パーソンズは、この人間観を「諸利害の一致」と呼び、ホッブス功利主義には存在しなかった概念であると述べている。

この「諸利害の一致」によってロックは、ホッブス功利主義という土台は同じだが、結論は異なるものとなった。ロックは、理性的な人びとは、たとえ諸個人の目的がばらばらで相互に無関係で、自分の目的のために他者を手段として利用する可能性があったとしても、自分だけが利益を得るのではなく、お互いの目的のためにお互いを手段とし、相互に利益がもたらされるようにするだろうと想定するのである。例えば、サーヴィスや所有物の「交換」という手段によって、お互いの目的(利益)を達成するといったことが考えられる。こうしたロックの議論は、古典経済学へと接続する。

 

しかし、パーソンズは、ロックの議論の前提となっている「諸利害の一致」が可能となるには、最初から誰にも偏った便益が与えられていない「自然的平等」の状態の達成と、暴力や欺瞞が抑制された状態が必要であるとロックの議論に異議を唱える。「自然的平等」という想定は非現実的であり、暴力や欺瞞の抑制からはホッブス問題が再浮上してくるとパーソンズは指摘する。この結果、パーソンズは、ロックの「諸利害の一致」ではホッブス問題は解決しないと結論づけ、ホッブス問題を解決するための材料として、ホッブス問題を解決しようとした別の諸理論を分析する。その諸理論とは、極端な実証主義的な立場に移行した理論である。

 

 パーソンズがまず初めに攻撃をしたのは、イギリスの経済学者のマルサスであった。それはマルサスが巻き込まれた論争のなかに極端な実証主義的傾向が現れていたからである。

先で紹介したロックの諸利害の一致という仮定は、極端な合理主義に回収され、無政府主義的社会主義に結びつていった。無政府主義的社会主義者は「人間が作る悪い制度の堕落的影響力からひとたび解放されれば、人間は自発的に自然に従って生きるようになり、調和、繁栄そして幸福のなかで生きるようになる。人びとは理性をもっており、一致した諸利害を実現するためには、自発的な協働こそが合理的なのである。人びとが、経済秩序の競争的個人主義のなかに見いだしたものは、分業の利益ではなく強制と抑圧、不正な不平等である」と主張した。

当時のイギリスにおいて無政府主義的ー社会主義的思想は、思想家のゴドウィンの『政治的正義』に顕著に表れていた。マルサスは、この思想に驚きゴドウィンに反論した(いまいちなぜマルサスがゴドウィンを批判したのかがよくわからない)。マルサスは、次のように主張する。

人間が自然との美わしい調和のなかで生きる代わりに、けちな自然が人間に生殖本能を賦与することで、卑劣な罠を仕掛ける。人間はこの本能を駆使することによって、自滅の種子を播くのである。172

  つまり、無政府主義的社会主義者(ゴドウィン)が望むように、人間のつくり出した制度のすべてが突然に廃絶されると仮定し、ホッブスの権力闘争ではなく平和なユートピアになるとすると、その幸福なユートピア状態は永続できないのである。なぜなら、人びとは自然の命令に従い、人口を増やすからである。人口が増えた結果起こるのは、食料の限界という飢餓である。飢餓は、人びとの生存競争を産み、「万人の万人に対する闘争」というホッブス問題に帰結するのである。

 

しかし、現実の社会は、そのような無際限な生存競争状態に陥っていない。それはどうしてだろうか? マルサスによれば、所有と結婚という制度があるからである。マルサスは次のように競争における制度の重要性を述べている。

競争はいかなる条件の下にあっても恩恵的であるのではない。そうではなく、適切な制度的枠組のなかにおいてはじめて競争は恩恵的なものとなる。人口増加に対する適切なチェックがなければ、恩恵的な競争も戦闘状態へと堕してしまうだろう。174

 

パーソンズによれば、ロック&ゴドウィンの功利主義的な思想における諸利害の一致は、極端な合理主義的な実証主義において可能になり、それに「人口の増加」という生物学的な観点から異議を唱えるマルサスの思想は、実証主義的な反主知主義というもう一つの極端な実証主義となる。

 

マルサスの反主知主義的な実証主義において争いは、「人口の増加」という生物学的な仮説とそれによる困窮、飢餓という人間外的な環境に基づいている。そこには、人間の目的や規範的な要素は含まれていない。つまり、人間の意志によって変えられる範囲は狭められているのである。

 

こうした思想は、19世紀のダーウィン主義運動と結びつき、極端な反主知主義的な実証主義体系を形成することになる。

 

ダーウィン主義においては、「人口の増加」の解決に対してマルサスの思想にあった功利主義的な「道徳的抑制=予防的チェック」を排され、「自然淘汰=強圧的チェック」が推し進められた。ダーウィンは、人びとのうちでどういうものが除去され、存在し続けるのかという問題に、はじめて注目した。このことは、一つの人口(母集団)のなかにも個体間の質的差異があることを示唆した。

では、どのような理由で個体間において質的差異が生じるのか? ダーウィンによれば、それは「突然変異」である。これらの変異のなかであるものが生存競争の渦中で除去され、生き残った種が再生していくのである。

マルサスや他の功利主義者に特有な、固定した要因への生態的な適応という観念が、進化理論に道を譲るのは、まさにこのような変異と淘汰との結びつきによってであった。

ダーウィン主義的な生物学が経験主義によって人間行為に適用され、「社会ダーウィン主義」が誕生した。社会ダーウィン主義は、功利主義的な人間のランダムな目的という主観的なものや合理性という規範を除去し、歴史の進路は、環境によって決定されると考える。つまり、反主知主義的な実証主義な立場が優位に立ち、功利主義は見捨てられたのである。

 

しかし、一つ疑問点がある。ダーウィン主義は、「人口の増加」という問題を自然淘汰と突然変異という概念で解決する。けれども、その自然淘汰の過程は、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」と同義である。つまり、ホッブスの秩序問題はダーウィン主義でも解決していないということである。

 

次にパーソンズは、反主知主義的と合理主義的な道を結合した第三の道を紹介する。第三の道とは、「快楽主義」である。快楽主義において、人間の行為の動機は、快楽の追求と苦痛の回避であると考えられている。なぜなら、快楽をもたらす行為を追求し、苦痛を伴う行為を回避するというのは、人間性(そのもの)に内在している事実だからである。

パーソンズは次のように述べる。

このようなやり方によって、合理主義的図式をこわすことなしに、純粋な功利主義的立場の不確定さは取り除かれた。人間的自然を所与とすれば、ランダムな欲求という要素はもはやそこには存在しない。なぜ彼はある具体的目的を追求しなければならないのかがはっきりする。それは快楽を獲得し、苦痛を回避する手段なのである。〔こうして〕われわれの用語でいえば、行為要因としての目的を「条件」に還元することによって、功利主義的立場から極端に実証主義的な立場への移行が行われる。なぜ人間が他ならぬそうした仕方で行為するのかを説明するものは、本質的にいって、人間的自然〔そのもの〕なのである。192 

  そして、人間的自然を理解するための基本原則は、すべての有機体と同様に、環境に対する適応である。つまり、快楽的行為は種の生存に有利なものであり、苦痛的行為は種の生存に不利なものであるということである。この結果、議論は社会ダーウィン主義に戻ることになる。結局、快楽主義もこれまの実証主義と同様に環境への適応が、行為の決定因となる。行為者の主観的な側面も、これまでの議論と同じように付帯現象にしかすぎず、次第に除去されるものとなるのである。

 

上記の議論から、合理主義、ダーウィン主義、快楽主義、すべての実証主義は、機械的決定論に陥ることになることがわかった。結果、選択や無知、誤謬などの行為者の主観的な側面を重視するパーソンズは、実証主義ではホッブス問題も主観的な側面も解決しないと判断し、袂を分かつことになったのである。

 

 

 

『SWEET SIXTEEN』 「孤独」のデザイン

EM 映画
ケン・ローチ監督『SWEET SIXTEEN』を観た。
舞台はイギリスのスコットランド。もうすぐ16歳になる15歳のリアムが、服役中の母親が釈放されるまでに、家族で暮らす家を購入しようとヤクザのヤクを売るというお話。
 
この映画で素晴らしかったのは、リアムという少年がいかにして「だれにも頼ることができない」状態に陥るのかが、丹念に描かれていたことだ。
 
素朴な問題だが、リアムが「だれにも頼ることができない」状態であるとわかるのは、そもそもどうしてなのだろうか。それは、ケン・ローチ監督が、私たちにその状態がわかるように映画を作っているからである。では、ケン・ローチ監督は、リアムが「だれにも頼ることができない」状態に至るのかを私たちがわかるように、どのように映画をデザインしているのだろうか。このデザインがポイントなのかもしれない。
 
『SWEET SIXTEEN』では、主人公のリアムが親しい人間関係から排除される過程に主眼がおかれている。学校の先生や市役所などのケースワーカーなどの専門家はでてこない。まず映画の序盤では、母親の服役という母親からの物理的な排除、次に中盤では親友と争い、親友からの排除、最後に終盤では姉と争い、姉からの排除、出所した母親は恋人の所に行き、母親からの排除となる。つまり、映画の進行とともに徐々にそれまでにあった主人公の人間関係が、崩壊していくのである。
 
このリアムの人間関係が崩壊していき、リアムには「だれも頼ることができない」と私たちにわかるために、ここで用いられている装置がある。それは、「二人の人間がどのような関係にあるのか」ということを示す装置である。つまり、{〈親(母父)−子〉、〈姉−弟〉〈友達−友達〉、〈知り合い−知り合い〉、……〈他人−他人〉}という集合が使われていると考えられる。
 
この集合における二人関係には、相手が悩んでいたりしたときにお互いにどういう態度を取るべきか、あるいは取ってよいかについての規範がある。例えば、「子ども」が悩んでいたら「親」は気にかけたり相談に乗ったりすべきや、反対に、「知り合い」や「他人」には悩みを相談をするはずがないとか。
つまり、二人関係が集まっているこの集合を使うことによって、悩みを訴えるのにふさわしい二人関係と、そうでない二人関係とに分けることができるのである。
 
また、悩みを相談してよい二人関係のなかには、関係の強さの序列がある。例えば、悩みを抱える人は親がいればその親よりも先に友達に相談すべきないとか。つまり、この集合を使うことによって、悩みを相談してよい相手がいた場合、どういう順序で相談するべきかを決めることもできるのである。
 
このように、この集合という装置を使うことは、誰に・どういう順序で・悩み相談をすべきかという規範に従うことになり、それは悩んでいる本人だけではなく、悩んでいる人が誰に相談すべき・していよいかを他人が判断するさいにもこの装置は使うことができるのである。
 
ケン・ローチ監督は、この{〈親(母父)−子〉、〈姉−弟〉〈友達−友達〉、〈知り合い−知り合い〉、……〈他人−他人〉}という集合を巧みに使いリアムの「だれにも頼ることができないない」という孤独に至る過程をデザインしている。母親の服役中、母親の恋人やその恋人の父から虐待をされたさいにリアムが頼ったのは、姉や親友であった。そこには〈姉−弟〉や〈友達−友達〉という二人関係を使うことで、〈親(母父)−子〉という一番に頼るべき相手に頼れないことが表現されている。そして、集合における関係の強さの序列を使用し、まず〈友達−友達〉、次に〈姉−弟〉、最後に〈母−子〉という関係の弱い順に関係性を失うことによって、リアムが「頼るべき相手がいない」という孤独に至る過程を端的に表現しているのである。

 

SWEET SIXTEEN [DVD]

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西阪仰「差別の語法-『問題』の相互行為的達成」『差別の社会学』

Book EM

  

この論文では、いかに社会学が「(社会)問題」を問うべきか、その態度が示されている。

社会学は、差別や権力、精神病などの「(社会)問題」を賑やかに語ってきた。しかし社会学は、「(社会)問題」そのものの分析をあまりしてこなかったと西阪は述べる。

社会学は、「差別」や「権力」などの理不尽で不可解なものを扱ってきたが、その「差別」や「権力」がいかに成立するのかを説明することは困難だった。なぜなら、理不尽で不可解なものを合理的なものにし、説明してしまうことは、その「差別」や「権力」を正当化したり、弁明をあたえたりすることにつながってしまうからだ。

そこで、西阪は、この理不尽でものを理不尽なまま、たん名指すだけではなく、積極的に語るやり方をこの論文で提案したいと述べている。

しかし、そもそもこれまで社会問題の社会学は、理不尽で不可解なものに対してどのようなアプローチをとっていたのだろうか。

西阪によれば、これまでの社会問題の社会学(マートン構築主義)は、社会問題を社会の一定の状態(例:不平等な状態)であると考え、その社会問題を「客観的」に研究するために厳密に「(社会)問題」を定義するというものだった。

西阪はこのような従来の社会問題へのアプローチに対して、次のように反論する。

 

このかれらの定義によって「指示」された過程は、わたしたちの現実なのか。わたしたちが日頃もちいる「(社会)問題」という概念は、おそらくマートンの定義以上に「曖昧で論理的に一貫していない」にちがいない。しかしながら、わたしたちは、この「曖昧な」概念をもちいて生活しているのであり、この生活がわたしたちの現実である。であるならば、社会学のなすべきことは、「曖昧な」概念を修復して「厳密な」概念をえることではなく、むしろ、この「曖昧な」概念が実際にどうもちいられているかを探求することではないか。67

 

つまり、社会学者が厳密に定義した「(社会)問題」という概念によって、切り取られた現実は社会学者の現実であり、曖昧な概念(理不尽で不可解なもの)を使っているわたしたちの現実とは異なるということである。したがって、社会学(者)がわたしたちの現実を切り取ろうとするならば、曖昧な「(社会)問題」という概念(理不尽で不可解なもの)を、その都度わたしたちがどのように使用し、何をなしているのかを探究することが重要なのである。例えば、「差別」について書かれた新聞記事があるならば、その記事が「差別」であると理解できるようにどのように書かれているのか、そこでは「差別」という概念がどのように用いられ、その概念を使用することで何がおこなわれているのか、これらを問うことが重要ということである。 

 

この論文を読んでとくに勉強になった点は、新聞記事も相互行為であるという視点だ。この視点は、雑誌の記事や論文など他の言説を研究するときにも応用できると思う。

 

新聞記事も記者の独白ではない。記事の記述は、不特定の人に読まれることを志向して、そのようにデザインされている。不特定者にあわせて、個々のことば選択され配置されている。このように特定の他者(「不特定者」という特定の他者も含め)に受けとめられることへの志向を湛えている言説は、すでに相互行為である。「社会問題がある」という事実は、相互行為的に組織・達成される、相互行為的現象なのである。そして、その事実の組織・達成は、他者とのやりとりにおけるさまざまな偶発的条件に依存している。71

 

ちょっと気になったのは、この論文でいわれている「客観主義」がいまいちよくわからないことだ。おそらく、社会実在論的な意味だと思うのだが……。

 

差別の社会理論 (講座 差別の社会学)

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『極私的ドキュメント にっぽんリアル「逃げずに生きたい」』 「忘れた」ケンカのやりとり

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『極私的ドキュメント にっぽんリアル「逃げずに生きたい」』を観た。いつも問題から逃げていると思っている30歳のディレクターが、その逃げ癖がついた原因の小学校6年生のときのトラウマを振り返るという話。トラウマは、みんながいる教室での親友とのケンカから逃げたというものだった。ディレクターは、そのトラウマを解消するために、小学校の友人に次々と会っていく。しかし、会う友人はそのことを「忘れた」、「覚えていない」という。覚えているのは、ディレクターとそのケンカした親友だけだった。

面白いところは、「忘れた」、「覚えていない」という友人とディレクターのやりとりである。

ディレクターは、「忘れた」という友人に小学校の卒業文集や卒業写真を見せ、思いだしてと迫る。この追求には、卒業文集や卒業写真が記憶の想起と密接に繋がっており、「卒業文集や卒業写真を見せれば当時の記憶を思い出すはず」という推論が働いていると考えられる。さらに、その必死なディレクターのふるまいからは、「この小学校のときの親友とのケンカはみんな見ていたはずで、絶対に覚えているはず」であるという規範的な期待があることがわかる。

また、この親友とケンカして逃げたという記憶は、ディレクターが自ら体験した経験であり、教室で見ていた友人たちよりも語る資格を持っている。それゆえ、友人たちがそのディレクターの記憶を評価(正しい、間違っている)したり、修復したりすることは困難である。

そこで友人たちが用いるのが「忘れた」、「覚えていない」という用法である。この「忘れた」、「覚えていない」という発言は、そもそもその事実があったかどうかを含意しないかたちで追求を回避することが可能である。つまり、友人たちは、ディレクターが述べるケンカから逃げ出したという事実が「あった」「なかった」という答えを、「忘れた」、「覚えていない」と発言することで、回避しているのである。

まぁしかし、このディレクターもしつこく、「忘れた」とその出来事についての回答を回避している友人に自分の逃げ出した過去の出来事リストを見せ、どうしても「思い出せ」と迫っている。

ときどき思うけど、「記憶」ってめんどくさいよね。「〇〇(誕生日や結婚記念日とか)を思い出せない」というだけどその人の誠実さが疑われたりするし。でも、私たちがどのようにして「思いだした」、「忘れた」、「覚えている」といっているのかって気になるよね。

 

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

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