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西阪仰「差別の語法-『問題』の相互行為的達成」『差別の社会学』

  

この論文では、いかに社会学が「(社会)問題」を問うべきか、その態度が示されている。

社会学は、差別や権力、精神病などの「(社会)問題」を賑やかに語ってきた。しかし社会学は、「(社会)問題」そのものの分析をあまりしてこなかったと西阪は述べる。

社会学は、「差別」や「権力」などの理不尽で不可解なものを扱ってきたが、その「差別」や「権力」がいかに成立するのかを説明することは困難だった。なぜなら、理不尽で不可解なものを合理的なものにし、説明してしまうことは、その「差別」や「権力」を正当化したり、弁明をあたえたりすることにつながってしまうからだ。

そこで、西阪は、この理不尽でものを理不尽なまま、たん名指すだけではなく、積極的に語るやり方をこの論文で提案したいと述べている。

しかし、そもそもこれまで社会問題の社会学は、理不尽で不可解なものに対してどのようなアプローチをとっていたのだろうか。

西阪によれば、これまでの社会問題の社会学(マートン構築主義)は、社会問題を社会の一定の状態(例:不平等な状態)であると考え、その社会問題を「客観的」に研究するために厳密に「(社会)問題」を定義するというものだった。

西阪はこのような従来の社会問題へのアプローチに対して、次のように反論する。

 

このかれらの定義によって「指示」された過程は、わたしたちの現実なのか。わたしたちが日頃もちいる「(社会)問題」という概念は、おそらくマートンの定義以上に「曖昧で論理的に一貫していない」にちがいない。しかしながら、わたしたちは、この「曖昧な」概念をもちいて生活しているのであり、この生活がわたしたちの現実である。であるならば、社会学のなすべきことは、「曖昧な」概念を修復して「厳密な」概念をえることではなく、むしろ、この「曖昧な」概念が実際にどうもちいられているかを探求することではないか。67

 

つまり、社会学者が厳密に定義した「(社会)問題」という概念によって、切り取られた現実は社会学者の現実であり、曖昧な概念(理不尽で不可解なもの)を使っているわたしたちの現実とは異なるということである。したがって、社会学(者)がわたしたちの現実を切り取ろうとするならば、曖昧な「(社会)問題」という概念(理不尽で不可解なもの)を、その都度わたしたちがどのように使用し、何をなしているのかを探究することが重要なのである。例えば、「差別」について書かれた新聞記事があるならば、その記事が「差別」であると理解できるようにどのように書かれているのか、そこでは「差別」という概念がどのように用いられ、その概念を使用することで何がおこなわれているのか、これらを問うことが重要ということである。 

 

この論文を読んでとくに勉強になった点は、新聞記事も相互行為であるという視点だ。この視点は、雑誌の記事や論文など他の言説を研究するときにも応用できると思う。

 

新聞記事も記者の独白ではない。記事の記述は、不特定の人に読まれることを志向して、そのようにデザインされている。不特定者にあわせて、個々のことば選択され配置されている。このように特定の他者(「不特定者」という特定の他者も含め)に受けとめられることへの志向を湛えている言説は、すでに相互行為である。「社会問題がある」という事実は、相互行為的に組織・達成される、相互行為的現象なのである。そして、その事実の組織・達成は、他者とのやりとりにおけるさまざまな偶発的条件に依存している。71

 

ちょっと気になったのは、この論文でいわれている「客観主義」がいまいちよくわからないことだ。おそらく、社会実在論的な意味だと思うのだが……。

 

差別の社会理論 (講座 差別の社会学)

差別の社会理論 (講座 差別の社会学)