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タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造1 総論』「第3章 行為理論における個人主義的実証主義の歴史的発展の諸段階」その1

ホッブス問題を勉強するために『社会的行為の構造1 総論』の第3章を読んでみた。ここでは、パーソンズの紹介で簡単にすっ飛ばされるホッブス問題におけるパーソンズの議論を丁寧に追ってみたい。

 

結論をさきにいえば、第3章でパーソンズは、当時主流だった実証主義ホッブス問題を解決しようとすると、機械的な決定論に陥るため、それでは行為者たちの「主観性」や「無知」、「誤謬」などを取り逃がしてしまうと実証主義に異を唱えるのである。

 

第3章 行為理論における個人主義実証主義の歴史的発展の諸段階

 

パーソンズによれば、ホッブスの社会理論は、純粋な功利主義である。功利主義とは、人間は行為の目的と手段の関係を「能率的規範」に従って合理的に追求するという考えである。 

ホッブスは、自然状態において人間は次のように行為をすると考えた。人間行為の基礎は「情念」にある。「情念」は行為のばらばらでランダムに変化する目的である。これらの目的を追求する上で、人びとは最も有効な手段を合理的に選択する。その有効な手段とは、暴力と欺瞞である。すなわち、ホッブス功利主義的な仮定に従えば、人びとは自らの目的を達成するために、「互いに破滅しあい、屈服させようと努力する」のである。そこに社会秩序はなく、あるのは「万人の万人に対する闘争」というカオスだけである。

 

しかし、実際の社会はそのようなカオスにはなっていない。では、いったいどのようにして社会は秩序だっているのだろうか? とパーソンズホッブスの秩序問題にまっこうから挑んだ。そして、パーソンズは、ホッブスの社会契約論は、人びとの合理性を拡大解釈し過ぎであると切り捨て、違う理論でこの秩序問題を解決したいと考えたのである。

 

ホッブスの秩序問題を考えるにあたって、パーソンズはまずロックの議論と対比させた。

パーソンズがまず初めにロックをもってきたのは、ロックはホッブスと同様に、人びとは自らの目的を合理的に追求していくと功利主義的に考えたが、自然状態に対してホッブスとは違う考えをもっていたからである。

ホッブスの自然状態とは「万人の万人に対する闘争」であったが、ロックの自然状態とは「理性(自然法)によって統治された幸福な状態」であった。ロックの自然状態における人間観は、「理性的な」人間というものは、自分の目的を追求するさいに、自らの行為を何らかの規則に服従するべきであるというものだ。パーソンズは、この人間観を「諸利害の一致」と呼び、ホッブス功利主義には存在しなかった概念であると述べている。

この「諸利害の一致」によってロックは、ホッブス功利主義という土台は同じだが、結論は異なるものとなった。ロックは、理性的な人びとは、たとえ諸個人の目的がばらばらで相互に無関係で、自分の目的のために他者を手段として利用する可能性があったとしても、自分だけが利益を得るのではなく、お互いの目的のためにお互いを手段とし、相互に利益がもたらされるようにするだろうと想定するのである。例えば、サーヴィスや所有物の「交換」という手段によって、お互いの目的(利益)を達成するといったことが考えられる。こうしたロックの議論は、古典経済学へと接続する。

 

しかし、パーソンズは、ロックの議論の前提となっている「諸利害の一致」が可能となるには、最初から誰にも偏った便益が与えられていない「自然的平等」の状態の達成と、暴力や欺瞞が抑制された状態が必要であるとロックの議論に異議を唱える。「自然的平等」という想定は非現実的であり、暴力や欺瞞の抑制からはホッブス問題が再浮上してくるとパーソンズは指摘する。この結果、パーソンズは、ロックの「諸利害の一致」ではホッブス問題は解決しないと結論づけ、ホッブス問題を解決するための材料として、ホッブス問題を解決しようとした別の諸理論を分析する。その諸理論とは、極端な実証主義的な立場に移行した理論である。

 

 パーソンズがまず初めに攻撃をしたのは、イギリスの経済学者のマルサスであった。それはマルサスが巻き込まれた論争のなかに極端な実証主義的傾向が現れていたからである。

先で紹介したロックの諸利害の一致という仮定は、極端な合理主義に回収され、無政府主義的社会主義に結びつていった。無政府主義的社会主義者は「人間が作る悪い制度の堕落的影響力からひとたび解放されれば、人間は自発的に自然に従って生きるようになり、調和、繁栄そして幸福のなかで生きるようになる。人びとは理性をもっており、一致した諸利害を実現するためには、自発的な協働こそが合理的なのである。人びとが、経済秩序の競争的個人主義のなかに見いだしたものは、分業の利益ではなく強制と抑圧、不正な不平等である」と主張した。

当時のイギリスにおいて無政府主義的ー社会主義的思想は、思想家のゴドウィンの『政治的正義』に顕著に表れていた。マルサスは、この思想に驚きゴドウィンに反論した(いまいちなぜマルサスがゴドウィンを批判したのかがよくわからない)。マルサスは、次のように主張する。

人間が自然との美わしい調和のなかで生きる代わりに、けちな自然が人間に生殖本能を賦与することで、卑劣な罠を仕掛ける。人間はこの本能を駆使することによって、自滅の種子を播くのである。172

  つまり、無政府主義的社会主義者(ゴドウィン)が望むように、人間のつくり出した制度のすべてが突然に廃絶されると仮定し、ホッブスの権力闘争ではなく平和なユートピアになるとすると、その幸福なユートピア状態は永続できないのである。なぜなら、人びとは自然の命令に従い、人口を増やすからである。人口が増えた結果起こるのは、食料の限界という飢餓である。飢餓は、人びとの生存競争を産み、「万人の万人に対する闘争」というホッブス問題に帰結するのである。

 

しかし、現実の社会は、そのような無際限な生存競争状態に陥っていない。それはどうしてだろうか? マルサスによれば、所有と結婚という制度があるからである。マルサスは次のように競争における制度の重要性を述べている。

競争はいかなる条件の下にあっても恩恵的であるのではない。そうではなく、適切な制度的枠組のなかにおいてはじめて競争は恩恵的なものとなる。人口増加に対する適切なチェックがなければ、恩恵的な競争も戦闘状態へと堕してしまうだろう。174

 

パーソンズによれば、ロック&ゴドウィンの功利主義的な思想における諸利害の一致は、極端な合理主義的な実証主義において可能になり、それに「人口の増加」という生物学的な観点から異議を唱えるマルサスの思想は、実証主義的な反主知主義というもう一つの極端な実証主義となる。

 

マルサスの反主知主義的な実証主義において争いは、「人口の増加」という生物学的な仮説とそれによる困窮、飢餓という人間外的な環境に基づいている。そこには、人間の目的や規範的な要素は含まれていない。つまり、人間の意志によって変えられる範囲は狭められているのである。

 

こうした思想は、19世紀のダーウィン主義運動と結びつき、極端な反主知主義的な実証主義体系を形成することになる。

 

ダーウィン主義においては、「人口の増加」の解決に対してマルサスの思想にあった功利主義的な「道徳的抑制=予防的チェック」を排され、「自然淘汰=強圧的チェック」が推し進められた。ダーウィンは、人びとのうちでどういうものが除去され、存在し続けるのかという問題に、はじめて注目した。このことは、一つの人口(母集団)のなかにも個体間の質的差異があることを示唆した。

では、どのような理由で個体間において質的差異が生じるのか? ダーウィンによれば、それは「突然変異」である。これらの変異のなかであるものが生存競争の渦中で除去され、生き残った種が再生していくのである。

マルサスや他の功利主義者に特有な、固定した要因への生態的な適応という観念が、進化理論に道を譲るのは、まさにこのような変異と淘汰との結びつきによってであった。

ダーウィン主義的な生物学が経験主義によって人間行為に適用され、「社会ダーウィン主義」が誕生した。社会ダーウィン主義は、功利主義的な人間のランダムな目的という主観的なものや合理性という規範を除去し、歴史の進路は、環境によって決定されると考える。つまり、反主知主義的な実証主義な立場が優位に立ち、功利主義は見捨てられたのである。

 

しかし、一つ疑問点がある。ダーウィン主義は、「人口の増加」という問題を自然淘汰と突然変異という概念で解決する。けれども、その自然淘汰の過程は、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」と同義である。つまり、ホッブスの秩序問題はダーウィン主義でも解決していないということである。

 

次にパーソンズは、反主知主義的と合理主義的な道を結合した第三の道を紹介する。第三の道とは、「快楽主義」である。快楽主義において、人間の行為の動機は、快楽の追求と苦痛の回避であると考えられている。なぜなら、快楽をもたらす行為を追求し、苦痛を伴う行為を回避するというのは、人間性(そのもの)に内在している事実だからである。

パーソンズは次のように述べる。

このようなやり方によって、合理主義的図式をこわすことなしに、純粋な功利主義的立場の不確定さは取り除かれた。人間的自然を所与とすれば、ランダムな欲求という要素はもはやそこには存在しない。なぜ彼はある具体的目的を追求しなければならないのかがはっきりする。それは快楽を獲得し、苦痛を回避する手段なのである。〔こうして〕われわれの用語でいえば、行為要因としての目的を「条件」に還元することによって、功利主義的立場から極端に実証主義的な立場への移行が行われる。なぜ人間が他ならぬそうした仕方で行為するのかを説明するものは、本質的にいって、人間的自然〔そのもの〕なのである。192 

  そして、人間的自然を理解するための基本原則は、すべての有機体と同様に、環境に対する適応である。つまり、快楽的行為は種の生存に有利なものであり、苦痛的行為は種の生存に不利なものであるということである。この結果、議論は社会ダーウィン主義に戻ることになる。結局、快楽主義もこれまの実証主義と同様に環境への適応が、行為の決定因となる。行為者の主観的な側面も、これまでの議論と同じように付帯現象にしかすぎず、次第に除去されるものとなるのである。

 

上記の議論から、合理主義、ダーウィン主義、快楽主義、すべての実証主義は、機械的決定論に陥ることになることがわかった。結果、選択や無知、誤謬などの行為者の主観的な側面を重視するパーソンズは、実証主義ではホッブス問題も主観的な側面も解決しないと判断し、袂を分かつことになったのである。