日常文庫@紅花読書会

日常に関すること。山形市で紅花読書会を開催しています。

映画『バベル』 「聾者」と「女」

 

バベル スタンダードエディション [DVD]

バベル スタンダードエディション [DVD]

 

 

『バベル』を観た。

菊池凛子が演じる聾唖の女子高生の映画だった。もちろん、他のストーリーもあるけど、あまり印象に残らなかった。

この映画でおもしろかったのは、聾唖の女子高生が、「聾唖者ー聴者」の関係を「身体の性」によって、「女ー男」の関係にズラそうとするところだ。

聾唖の女子高生は、聴者の男子高校生からナンパされるが、聾唖者だとわかり、男子高校生から避けられ、嘲笑されてしまった。

聾唖者は、ぱっと見では聴者に見える。

しかし、聴者と話すと聾唖者とカテゴライズされる。聾唖者独特の声や手話によって。

聾唖者のパッシングは難しい。

 

男子高校生から嘲笑され怒った聾唖の女子高生は、女性器を男性に見せたり、男性の前で裸になったりと自らを「女」であると提示するようになる。

つまり、聾唖の女子高生は、身体の性を用いて、「女」として自らをカテゴライズすることによって、「聾唖者」となることを回避しているのである。

身体の性を用いれば、男性には、「聾唖者ー聴者」の関係ではなく、「女ー男」の関係として理解されると期待したのだ。

 

 

 

蒔田備憲『難病カルテ-患者たちのいま』

1年後、重い貧血症状をきっかけに入院した。「関節リウマチ」と判明した。「お年寄りの病気」だと思っていた。口をついて出た言葉は、「なんで私が?」。 p292

『難病カルテ』には、68人の難病者の暮らしや生き方が書かれている。難病者の暮らしや生き方は多様で、病気や症状も様々である。難病になっても、生きがいを見いだし人生を謳歌している人もいれば、難病になり仕事につけずに家にいる人もいる。

 

しかし、多くの難病者が冒頭の引用のように「なんで私が?」と発する。どうして自分が難病になるのか、と自分が難病になる理由を問いかけるのだ。この問いかけに難病当事者の大野更紗は次のように応える。

現代において「難病」の当事者となることはまるで、社会のあらゆる困難のリストが連ねられた、クジをひくようなものだ。 p444

つまり、難病当事者になるということは、困難のリストが書かれたクジをひくようなもので、誰もが難病を発症する(クジをひく)可能性はあるということである。

 

この誰もが発症するものであるからこそ、難病を発症したとしても、その困難を軽減する社会的な環境が必要であるように思われる。しかし、難病者の就労環境は極寒の真冬のように厳しい。「難病者」の多くが、それまで会社で働いていたが、難病を発病し退社、再就職をしても過労や病状の悪化、周囲の偏見で退社を余儀なくされたり、就職しようとしても難病者ということで、就職活動で門前払いをされたりしている。

難病者であったとしても、医療費や日々の生活費はかかる。障害者認定がされず制度の「谷間」で困っている人もいる。難病者も働いて賃金を稼ぐ必要があるのである。

 

『難病カルテ』を読んでいると、就労環境を整備することが難病において喫緊の問題であると感じられた。就労環境を整備することで、難病者の困難のリストは僅かでも減るのではないだろうか。グループホームで介護の仕事をしているビュルガー病(バージャー病)の副島さんの次の言葉が印象的だった。

先への不安がないわけではないが、下を向かない理由がある。「仕事を続けることで、人生を切り開ける。希望が持てるのです」。確信を持って、そう言える。p285

 

 

難病カルテ―患者たちのいま

難病カルテ―患者たちのいま

 

 

G・サーサス/H・ガーフィンケル/H・サックス/E・シェグロフ著 北澤裕/西阪訳『日常性の解剖学—知と会話—』

 『日常性の解剖学』は「エスノメソドロジー」と「会話分析」の基本文献である。 下記の4つの論文が収められている。サーサス以外の論文は、なかなか読むのに骨が折れるので、『ワードマップ エスノメソドロジー』を読んでから読むとおもしろく読めるだろう。

  • ジョージ・サーサス「序論 エスノメソドロジー—社会科学における新たな展開」
  • ハロルド・ガーフィンケル「日常性の基盤—当たり前を見る」
  • ハーヴィー・サックス「会話データの利用法—会話分析事始め」
  • エマニュエル・シェグロフ、ハーヴィー・サックス「会話はどのように終了されるのか」

 

サーサスの「序論」は、エスノメソドロジーの歴史や基本的な発想、方法、民族誌との違いなどについて平易に書かれている。エスノメソドロジーが、何を研究するものなのかがわかりやすく説明されている。エスノメソドロジーは、いったい何をしているのかがよくわからないという人は、これを読むと少しはエスノメソドロジーが何を明らかにしようとしているのかがわかるだろう。

エスノメソドロジーが研究するのは、成員たちがどういうやり方で行為や出来事を理解するのか、なのです。成員たちが、「信念」だとか「動機」という考え方を持ち出すなら、この考え方がどのように用いられているのか、それを用いることによって何が成し遂げられるのか、ということこそ、私たちの関心の的なのです。p21
 エスノメソドロジストにとっては、成員たちが、たとえなんであれ何かを成し遂げようとするとき実際に用いる方法こそ「恐るべき謎」です。24

 

ガーフィンケルの「日常性の基盤」は、「背後期待」や「判断力喪失者」、「期待破棄実験」、「解釈のドキュメンタリーメソッド」などガーフィンケルのアイディアが詰まったものである。この論文を読んでいる最中、ガーフィンケルの学生は大変だったろうと何度も学生に同情してしまった。

  ・判断力喪失者

社会学者は、次の事実を認めているが、つねに軽んじてきた。つまり、成員たちは、他ならぬこの行為をするといったことより、まさに当の標準化を発見・生成・保持するのだとの事実である。このことを無視してしまうならば、社会科学者は、成員の安定した行為の性格やその条件を見誤ることになる。現に、彼らはそのような見誤りを招いており、その結果、社会の成員を文化的もしくは心理学的な、あるいは両方の判断力喪失者(judgmental dope)とみなしている。p76

  ・期待破棄実験

〈共に知られている〉(背後期待の〕基盤が失われるやいなや、成員たちが知覚する現実の状況は「まったく無意味なもの」に化してしまうのある。理念的に言えば、このような無意味な状況に対する行動は、困惑・不明瞭・内面的葛藤や心理的・社会的孤立をともなうものであり、また急激な人格喪失のさまざまな兆候を示す名付けようのない不安をともなうのである。かくして、相互行為の構造は崩壊するだろう。p59

サックスの「会話データの利用法—会話分析事始め」は、成員カテゴリー化装置の説明と、その成員カテゴリー化装置によって自殺防止センターにかかってくる相談の電話の分析である。自殺防止センターにかけてくる多くの相談者は、「誰も頼る人がいないんです」と言う。しかし、相談者は自殺防止センターのスタッフを頼ってきているので、この発話はおかしいように感じるが、相談者の発話は理解できる。では、この相談者の発話はいかにして構成されているのかを、サックスは成員カテゴリー化装置を使って鮮やかに説明する。その説明の中でサックスは、「専門家」と「素人」が、自明なものではなく、専門家がいかに専門家として振る舞っているのかということも指摘する。

専門家は最初は赤の他人として接触を求められる。しかし、専門家は、自分が頼られて当然の者であることを示し、さらに自分の当場を唯一適切なカテゴリーに転化していくために、自殺志願者に対し、その人のかかえている困難は自分の専門領域に属するものであり、自分たちがそれを解決することができるのだということをわからせねばならない。そのようにして、自分たちに頼ることは不適切ではないということばかりか、さらに、Rpの成員には助けてもらうことができないということまで言うのである。p158

 
シェグロフとサックスの「会話はどのように終了されるのか」は、日常の会話においてどのように人びとがその都度、その会話を終了しているのかを「隣接対」を用いて考察している。*1この論文を読むと、ふだん自分が相手とどのように会話を終了させているのかがよくわかる。下の引用のように、こちらが終わりたいサインをだしているのに、中々会話が終了しないということはよくある。

終了は、一度開始されると不可避的に進行していくといった、型にはまった過程としては扱うことができないということである。むしろ、終了も、会話全体と同じように、会話進行中のさまざまな時点で、そのつど次がどうなるのかについての諸可能性の集合としてみなさなければならない。p232

 
 

 

日常性の解剖学―知と会話

日常性の解剖学―知と会話

  • 作者: ジョージサーサス,ハーヴィーサックス,ハロルドガーフィンケル,エマニュエルシェグロフ,George Psathas,Harvey Sacks,Harold Garfinkel,Emmanuel Schgloff,北沢裕,西阪仰
  • 出版社/メーカー: マルジュ社
  • 発売日: 1997/07
  • メディア: 単行本
  • クリック: 1回
  • この商品を含むブログ (7件) を見る
 

 

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

 

 

 

絶え間なき交信の時代―ケータイ文化の誕生

絶え間なき交信の時代―ケータイ文化の誕生

 

 

 

*1:シェグロフの会話の開始の分析は、2003, 「開始連鎖」 平英美訳『絶え間なき交信の時代』に載っている。

P.ウィンチ『社会科学の理念−ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』第2章

久しぶりのUPです。第2章を簡単にまとめました。私がわかりにくいと感じたウィンチの例や文は、適宜すこし変更しました。もし理解が間違っているところがありましたら、ご指摘頂けると嬉しいです。

 

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

 

 

1.哲学と社会学

「人間による現実の理解」という哲学の問題とは、人びとが現実を理解するさいの前提となっている概念が、「社会における人びとの相互関係」においてどのように使用されているのかーすなわち、どのような規準や条件において概念が使用され、人びとの現実理解が可能になっているのかを明らかにすることであると1章でウィンチはいった。

その人びとがもちいている概念を明らかにするためには、その概念を「社会における人びとの相互関係」という社会的文脈に置かねばならないと、ウィトゲンシュタインの規則に関する議論からウィンチは考えている。つまり、ウィトゲンシュタインの「受け入れるべきもの、所与、とはいわば生活の諸様式である」ということが、哲学の問題において非常に重要なのである。

 

また、この哲学の「生活様式(人びとの現実理解を可能にする条件)」を解明するということは、「社会現象(人びとが関わりあうこと)」を解明する社会(科)学の目的でもある。この社会(科)学の問題である「社会現象」の解明とは、経験的な問題ではなく、哲学の問題(経験を可能にする概念の水準)であるとウィンチは力説する。

社会(科)学の研究において、「言語」・「意味」・「理解可能性」といった概念それ自体が、問われることはほとんどない。「類似した概念が、さまざまな社会の言語においてどのように異なるか」をテーマとした経験的研究がおこなわれるくらいである。そのような概念自体を問わない社会(科)学の方法では、次のような重要な事実が見過ごされてしまっているとウィンチは嘆く。それは、社会(科)学の研究においてもちいられている概念は、そもそもその意味を人びとの社会的な相互作用に依存しているという事実だ。

 

 

2.有意味な行動

さて、ここからがこの第2章の本題である。「規則の適用」に関するウィトゲンシュタインの議論は、言語の本質を明らかにするものであった。では、このウィトゲンシュタインの「規則の適用」に関する議論を、言語以外の人びとの相互作用における様式に敷衍すると、どのような答えを与えてくれるのだろうか?

 

 ウィンチによれば、相互作用における様式とは、意味=シンボリックな特性をもつ有意味な行為である。では、この有意味な行為とは、いかなるものなのだろうか?

この問いに対して、有意味な行為とは、行為者を未来の特定の行為に拘束することにおいて、他の一連の諸行為と相携えているものであるとウィンチは答える。この「有意味な行為=未来の特定の行為への拘束」は、1章でウィンチがいった「規則の適用」と同じものである。

規則の適用とは、行為が一定の仕方で進行し、他の人が当然のこととして同調できる場合であった。つまり、規則が適用された行為は、未来の特定の行為を予期することができるということである。規則が適用された行為が、未来への特定の行為を予期可能にし、有意味な行為として理解されるのである。

それは、なにがしかの理由があって行為をするから、その行為が有意味になるのではなく、規則の適用がなされた行為だから、有意味になるということである。そして、ある行為が規則に従っていると理解されるためには、その行為を理解可能にさせる社会的環境(文脈)が必要である。

例えば、昨日、Nさんが投票に行ったといったとする。このNさんの昨日の行為が、「投票」という有意味な行為として理解されるためには次の2つの条件が必要になる。

 

⑴ Nが特定の政治制度(特定の議会とその議会に関係する政府)をもつ社会に住んでいること(日本であれば、国会[議会]、内閣[政府])=社会的文脈

⑵ Nが選挙制度の規則についての知識をもち、適切にその規則を適用していること(日本であれば、20歳以上の有権者が、議会に参加する代表者を選び、その選ばれた代表者が多い党が政権与党となる)

 

 この2つの条件が整わなければ、Nさんの昨日の行為は「投票」という有意味な行為として理解することはできない。投票は20歳以上の有権者しかできないので、もしNが20歳未満であれば、適切に選挙制度の規則が適用されていないので、Nの昨日の行為は「投票」とはいえず、有意味な行為にはならない。

 

3.活動と格率

ウィンチは、自分の考えに対して批判もあるだろうと、次のような批判を想定している。

「私たちは、ある種の活動においてはたしかに規則を守っているが、規則を守らない活動もしているではないか? たとえば、自由思想を抱くヒッピーは、修行僧と同じ意味で規則に縛られた生活をしているとは思えない。それならば、これらの非常に異なった生活様式を、『規則に従う』という同じカテゴリーに含めることは誤りではないだろうか?」

 

このような修行僧は規則に従っていると思えるが、ヒッピーは規則に従っているとは思えないという批判に対して、ウィンチは修行僧の行動もヒッピーの行動もどちらも規則に従ったものであると反論する。修行僧とヒッピーの行動の違いは、一方が規則に従い、他方が従わないということではなく、各々が従っている規則の性質が異なっていることにある。

修行僧の規則とは、修道僧の生活が明示的かつ厳格に定められたさまざまな規則によって制約されているということである。それらの規則は、行為が必要とされる状況での個人的選択の余地を可能な限り取り除いている。

一方、ヒッピーの規則とは、明示的で厳格な規範には支配されないことを規則としていることである。男性のヒッピーが、ヒゲを伸ばし、バンダナを頭に巻き長髪でジーンズを履くという特定の行為(ヒッピーにおいて有意味な)を選択するのは、その行為がヒッピーの規則において適切なものだからである。

 

さらに、ウィンチは自分の主張の論拠として、イギリスの政治哲学者のM・オークショットの見解を援用する。オークショットは、人間の知性と合理性の本質に関する「合理主義的」誤解というものを拒否している。この「合理主義的」誤解によれば、人間行動の合理性とは、人間の知的機能である脳からなされるもので、個々の生活様式において働くとはいえ、原則上それらの生活様式とは全く関係のないものである。

この見解に対してオークショットは、一般に人間の生活において、追求される目的とその目的のために採用される手段は、いずれも社会的活動の諸様式を生み出すどころか、それらは社会活動の諸様式が前提となって存在していると批判する。先ほどのヒッピーの例でいえば、ヒッピーは、「あの男はヒッピーだ!」として他者から理解されるために、ヒゲを伸ばし、バンダナを巻き長髪でジーンズを履くという実践をしている。その実践には、ヒッピーの世間の厳格な規範には従わないという規則が前提となっている。そして、この人間の行為における規則は、修行僧もヒッピーも各々の諸規則に従っていたように、決して一組の明示的な格率(規範)に要約されることはないとオークショットはいう。

つまり、規則はその実践(「修行僧である」ことや「ヒッピーである」こと)と分かちがたく結びついており、他者にその実践が理解されるには、その実践において適切な規則が適用されいなければならないということである。

 

4.規則と習慣

さきほどまで、オークショットの意見に賛成していたウィンチだが、ここから(2章の4節と5節)はウィンチのオークショット批判が展開される。

オークショットはいう。ほとんどの人間行動は、習慣(or慣習)という概念によって適切に記述することが可能である。人間の行動において、規則の概念も反省の概念も不可欠なものではない。習慣的な行動とは、規則が意識的に適用されないものである。規則に従った行動とは、規則が意識的に適用されたものである。

 つまり、オークショットは、行動には習慣的なものと規則に従うものがあり、その違いは規則が意識的に適用されているか(自分の従っている規則を明確に述べられるか)どうかにある、と考えている。

ウィンチはオークショットの規則の適用に対する考え方に反対する。ある人の行為が規則の適用であるかどうかは、彼がその規則を明確に述べられるかどうかではない。規則の適用における適切な仕方と、不適切な仕方を区別できるかどうかによって決まるとウィンチはいう。

ウィンチのいう行為における規則の適用は、規則の適用における適切/不適切な仕方を区別できるかどうかにあるとは、どういうことだろうか。ウィンチは、物事の仕方を学ぶことについて考えることで、この問いに応える。

物事(行為)の仕方を学ぶとは、単に他人の行為をまねることではない。同じ仕方を行うだけではなく、どのような仕方が同じであるとみなされるのかも学ばなければならない。同じ仕方であるとみなされれば、それは規則の適用において適切な行為となり、同じ仕方ではないとみなされれば、規則の適用において不適切な行為として理解される。つまり、物事の仕方を学ぶとは、何が同じ(適切)で、何が同じではない(不適切)とみなされるかの規準(規則)を学ぶということである。

そして、物事の仕方を学んだ人が、規則が適用されている(同じ仕方である)と教えた人にみなされるためには、はじめに示されたものを示すだけではなく、はじめに示されたものとは違ったものも示さなければならない。ここでウィンチは、ウィトゲンシュタイン自然数の規則を教える先生とその生徒の例を出す。

 

 先生「0,1,2,3,4,5,6。これと同じように自然数を書いてみよう。さらにこの続きも書いてみ 

    よう」

   生徒A「0,1,2,3,4,5,6,0,5,6

   先生「不正解!」

   生徒B「0,1,2,3,4,5,6,7,8,9

   先生「正解!」

 

生徒Aは、「0,5,6」と自然数の規則である「順番に書きつづける」という規則を適用していないので、不正解(同じ仕方ではない)であるとみなされ、一方、生徒Bは「7,8,9」と自然数の規則「順番に書きつづける」を適用しているので、正解(同じ仕方)であるとみなされている。

 また、習慣の獲得と規則の習得においても、その意味は違う。もし人間が、犬に「おすわり!」と命令すると、犬がおすわりをするという習慣を身につけさせたとする。これは、犬が、過去の自分に生じたことのゆえに、今一定の仕方で人間の命令に反応しているだけである。 一方、私が自然数列を100を超えてつづけるように言われたなら、私は、私の過去の訓練のゆえにしかるべき仕方でつづけることができる。しかし、「のゆえに」という言い方はこれら二つの状況では異なる。犬は一定の仕方で反応するように「条件づけ」られているのに対して、私は、私が規則を教わったことのおかげで、進むべき正しい途を知っているのである。

つまり、犬は習慣を獲得するために、「同種の場合に同じことをする(「おすわり!」ーおすわりをする)」で何が意味されているかを全く理解する必要がない。対して人間は、規則を身につけたと言われるために、「同種の場合に同じことをする」で何が意味されているか(規則の適切な使用方法)を理解しなければならない。

 

5.内省

この節が、この章の最後の節になる。感慨ひとしおである。この節は、前節に続きウィンチのオークショット批判が展開される。では、この節でウィンチは、オークショットのどのような意見に反対しているのだろうか。

オークショットは、状況の変化に応じた習慣の変化とその適応は、内省とはかかわりなく生じるという。オークショットによれば、「私は今ここで何をすべきか」という形式のジレンマは、明確に定式化された規則に自覚的に従おうとする人にのみ生じるのであって、習慣に無反省に従っている人に生じることはない。

しかし、ウィンチは、内省の可能性は、状況に応じた適応性には不可欠なものであるとオークショットの主張に反対する。なぜなら、内省の問題は、これまで経験したことのない状況に対処しなければならない場合には、誰にでも必ず生じるものであるからである。内省がなければ、私たちの行為は、有意味なものではなくなり、その行為は刺激に対する単なる反応か、または真に盲目である習慣の発言となるとウィンチはいう。

なぜ、内省がなければ、私たちの行為は有意味なものとならないのか。ウィンチは次のように応える。この「内省的諸原理」は、行為の適切な規則の適用(有意味な行為)を通して、産出され、把握される。つまり、「内省的諸原理」と「有意味な行為」とは、織り込みあっているのである。

 

また、内省に対するオークショットの見解は、オークショットがその議論のはじめに主張した極めて重要な論点と矛盾するとウィンチは指摘する。オークショットは、一方では道徳において内省は働かないといっているが、他方では道徳生活とは「選択が可能な行為」だとも述べている。たしかに、この「選択[項]」は行為者の意識に明示されている必要はない。しかし、少なくともそれは行為者の意識にのぼり得るものでなければならないとウィンチは考える。

ウィンチは、正直な人間の例をだしてこのことを説明する。正直な人間は、金を簡単に盗むことができる状況であって盗むことはない。違った行為(盗み)をするという考えは、全く彼には起こらない。それでも、彼は違った行為(盗み)をする選択項をもっている。なぜなら、彼は自分の置かれている状況と、彼がしている(またはしないでいる)ことの本質を理解しているからである。つまり、「盗む」という行為の選択肢がなければ、「盗まない」という行為が、理解され、道徳的に有意味(正直)になることはない。反対に、「盗む」という行為が理解され、道徳的に非難されるのは、「盗まない」という行為の選択が可能だからである。すなわち、何事かを理解するとは、それと反対のことを理解することも意味しているのである。

 

ピーター・ウィンチ『社会科学の理念−ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』第1章

第1章の概要

 『社会科学の理念』におけるウィンチの目的は、次のような考え方を批判することにある。社会科学は、まだ哲学の影響から抜け出せない未熟な状況にあり、社会科学が進歩するには、哲学の方法ではなく、自然科学の方法に従わなければならない(Winch 1958=1977:1)。この目的を達成するために、ウィンチは今日流布している「哲学」と「社会研究」に関する考え方を批判する。

 第1章でウィンチは、まず今日流布している「哲学」の考えた「下働き(としての哲学の)概念」を批判する。ウィンチは、下働き概念を次のような考え方であると説明している。新しい知識は科学の実験的・観察的方法によって獲得されるものである。哲学は、その科学に用いられている言語の混乱を取り除くのが仕事である(Winch 1958=1977:6)。

 

 この下働き概念は、哲学を「科学の長」とする見解への反発から生じている。下働き概念によれば、現実の本質を探究するのは科学の仕事であり、哲学の仕事ではない。しかし、ウィンチは、この下働き概念の考え方に対して次の3点を批判している。
 まず第1に、科学と哲学では現実の本質を探究することにおいて、目的が異なる。科学は、「個々」の現実の事物や過程について実験や観察をして、研究をする。一方、哲学は、現実の本質そのものを、その「一般性」において研究をする。つまり、哲学は、現実に対する「概念」の水準において問うのである。
 個々の事例に対する実験では、この哲学の問題に答えることができない。なぜなら、個々の事例について実験するということは、すでにその事例を「現実のもの」として理解しているからである。
 第2に、哲学は言語の混乱に関するすべてに関心はない。哲学にとって言語の混乱は、びとびとがどのように現実を理解しているのかと問う場合にだけ、意味がある。下働き概念は、「現実」と「ひとびとが現実を記述するさいに使用している言語」を切り離し、哲学の問題は言語からのみ生じていると矮小化している。わたしたちは言語を通じて現実を経験をしている。言語を欠いた経験は不可能である。すなわち、言語と現実を切り離して論じることは、このような言語と現実の関係を問うことを回避することになるのである。
 第3に、下働き概念を信条にしているひとたちも、言語を通じて現実を理解可能にしている。現実と言語を切り離す経験主義者も、現実の本質の解明は経験的なものでなければならないと考える。しかし、その経験主義者でさえ、「事物」や「事物の性質」、「因果関係」などの言語を用いて現実の理解を可能にしている。したがって、社会科学の問題は、経験的な調査によってだけ取り組まれるものでない。わたしたちの現実を理解可能にしている言葉(概念)を分析することで、解決される問題もあるはずである。


 ウィンチの上記の議論は、現実の本質と理解可能性(inteligibility)に関する問題を前提にしている。では、理解可能性(何かを理解する)とは、どのようなことなのだろうか。理解可能性という概念の意味は、それが使用されている個々の文脈ごとに異なる。科学者や宗教家、芸術家はそれぞれ現実をより理解し得るものにしようとしている。しかし、それぞれの目的は異なるため、それぞれの理解可能性という概念をまとめることで、理解可能性の意味を特定することできない。したがって、ウィンチは、哲学の研究目的とは、理解可能性という概念の個々の文脈におけるあり方や、現実の理解を可能にしている基準や諸条件を明らかにすることであると述べている(Winch 1958=1977:25)。
 では、現実を理解を可能にしている基準や諸条件を明らかにすることとは、どのようなことだろうか。わたしたちは、ある人が同じような状況で常に同じような行動をしている場合、彼は規則に従っているといいたくなる。しかし、どのような場合にその人が規則に従っているといえるのだろうか。ウィンチは次のように述べている。ある人の行動は、一定の仕方で進行している彼の行動に他の人が当然のこととして同調でき、それによって彼の行動を把握できる場合にのみ、規則に従っているというカテゴリーに属するのである(Winch 1958=1977:38)。例えば、こちらが「おはよう」と言い、相手が「おはよう」と返事をしたら、わたしたちはお互いに「挨拶-挨拶」という規則に従っていると理解できるだろう。

 しかし、規則に従って適切に行為がなされているときには、その規則に気づいたり、考えたりはしない。規則に気づいたり、考えたりするのは、その規則に違背した不適切な行為がなされたときである。ウィンチは、規則に従うという概念は、誤りをおかすという概念と論理的に不可分であると述べている(Winch 1958=1977:39)。つまり、違背可能でなければ、規則とは呼べないのである。

 そして、その違背は他者から認識可能でなければならない。知り合いに「挨拶」をして、返事がなければわたしたちはもう一度、挨拶をしたり、無視をした相手を非難をするかもしれない。それは、相手が「挨拶-挨拶」という規範に従っていない、背いたと理解できるからである。もし自分が決めたルールに自分だけが従っていたとしたら、それは他者から守られているか判断ができない。したがって、そのような違背が他者から認識不可能な規則は、規則とは呼べないのである。


第1章のよかった、面白いと感じた点
 現実の理解の前提となっている概念を分析するという提言が、潔く格好良かった。私もひとびとは、その場に適切な概念を用いて行為を達成していると考えるからだ。確かに、社会調査の授業で、調査をする前に日常で使われている概念を操作的に定義をするべきであると習った。「友達」や「旅行」などを調査に合うように定義しなさいと 。しかし、ウィンチがいうように、そのように概念を操作的に定義することは、現実の理解の前提となっている概念を現実から切り離してしまうことになる。したがって、それでは、いつまで経っても現実の理解を探究することはできないだろう。

 

第1章の疑問点、気になった点
 疑問点は2つある。1つは、現実の理解可能性を明らかにするとは、いったい如何にしてなされるのだろうか。行為を理解可能にしている概念を探究するということはわかった。では、どのようにしてその概念を探究するのだろうか。
 2つめは、わたしたちは、言葉を通じて世界を理解しているとウィンチはいう。しかし、言葉は新しいものがでてきり、使われなくなったりと変化をする。 その場合、わたしたちの世界の理解も言葉と同様に変化するのだろうか。変化するとしたら、それはどのようにして変化をするのだろうか。

 

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究